しょっぱいコンクリート

某大物政治家が、またも自分の発言によって騒ぎを起こしたらしい。敵の揚げ足をとり、自分に有利な場を作る。これも良い政治家であるための仕事の一つだと思うので、失言の少なくない政治家は、それだけでも悪い政治家と呼べるだろう。自分の支持者や属する政党に損害を提供してくれるのだから、敵にしてみれば、良い政治家、いや良いカモであるかもしれない。
彼の属する政党は、議席を十二分に確保し、磐石のように見える。だから、黙々と目的遂行のための準備を整えれば良いだけのように思うのだが、サービス精神が旺盛なのか、それとも、過激な比喩表現を使うことで注目を浴びたい露出癖の持ち主なのか、何だか危なっかしい政治家である。
敵対する諸政党が、あまりに小粒なのと、つい最近まで与党だった某党が、こちらはこちらで失態や失言を十分に蓄積してきたお陰で、現与党の足場は、まだまだ持ちこたえられそうではある。ただ、憲法にしても経済政策にしても、20年以上にわたって積み重なってきた問題群の解消や克服が目的である以上、戦いは長丁場になるはずで、当然のことながら、長期政権として君臨し続ける必要があるだろう。その際、失言の多い政治家の存在こそが、政党の目的を最も阻害する要因になるのではないか?とても心配である。

因習の耐えられない重さ4

憶測と妄想に基づいて議論してきたが、これまでの話を要約しておく。

僕の限られた経験では、学問(国語、数学、社会、理科、英語)をがんばる方が、スポーツをがんばるよりもリスクが低い。しかも、一度スポーツでがんばる生き方を選んでしまうと、その道で失敗してしまい、別の生き方を選択しなければならなくなった場合、やり直しが難しい。そのため、スポーツに特化した人生を生きている人たちは、今まさに悪辣な境遇に身を置かざるをえないとしても、そこから逃げ出せない。あるいは、逃げ出すために、人並み以上の勇気や経済的な強さ、加えて、支援してくれる人たちの存在が欠かせない。しかし、勇気とお金と信頼できる人、この三拍子がそろっている人というのは、おそらく多くはない。結果として、自分達の置かれた悪辣な状況を正当化したり、教師やコーチの悪事を黙認したりといった選択をしてしまう。

以上のことが妥当な見解だとして、こういった現実を克服するには、どうすれば良いだろうか?提案する前に、まずは問題の核となる事柄について整理してみよう。問題の核心は、スポーツよりも学問の方が潰しが利くということにある。既に書いたことだけど、5教科が得意な人は、公務員試験をはじめとする様々な国家資格試験を受験する際、5教科が苦手な人より有利だ。特に、高校で学習する範囲を得意とする人であれば、最難関と言われるような資格試験もパスできるだろう。そのため、スポーツのみ頑張ってきた人よりも就職や転職で有利だ。
それに、これも書いたことだけど、スポーツエリートとして生きてゆける人の数は、学問のエリートとして生きてゆける人の数よりも少ない。東大入学者数と高校野球の甲子園大会出場者数とを比べても、人数制限にかなりの開きがある。とても雑な言い方になるけれど、つまり、5教科さえ得意であれば、よほど不運な人でもない限り、そこそこ安心な人生が約束されているということだ。


佐藤君も山田君も同じくらいの快適な人生を歩けるような社会を実現するためには、どうすれば良いか?実は、僕には、案が1つだけある。それは、高校入試や大学入試(センター試験含む)に、実技4教科を加えるというものだ。ただし、実技4教科は、ペーパーテストではなく、実技を問うものにする。さらに、配点も、5教科と実技4教科とを同じにする。つまり、

国語・数学・理科・社会・英語⇒それぞれ100点満点
保健・体育⇒100点満点
技術・家庭⇒100点満点
音楽⇒100点満点
美術⇒100点満点

ということだ。ただ、保健と体育、技術と家庭をそれぞれ別々の教科として扱うべきか、それとも、従来通り、1つのまとまりとして扱うべきか、という問題が残されている。これは後々の課題である。
また、こっちは重要なことなので書いておかなければならない。実技4教科の試験内容は、実技である。どんな内容にすべきなのかは決まっていないが、保健体育であれば、人形を使った人工呼吸や人命救助の実践テスト。技術家庭であれば、本棚なりハンカチのパッチワークなりを、時間内に一定の品質で仕上られるかを試す。音楽であれば、課題曲を指定されている楽器を使って演奏できるか試す。美術であれば、同一のモデルを模写させてデッサン力を試す。というように、ともかく技術を競うものにするということだ。



実技試験の実施によって、試験期間は長期化するだろう。採点も手間の掛かるものになるに違いない。人件費や諸費用が爆発的に増える可能性はあるので、費用的に実現不可能ということは十分にある。それでも、この案は、公平性という点で、そこそこ良いのではないかと自負している。加えて、第3次産業が主流となった昨今において、事務処理だけが得意な人材というのも、従来より重要視されなくなっている。求められるのは、自分で考えて自分で行動する人材、嫌味な言い方をすれば、器用貧乏一歩手前な人材なのだろう。物事を多面的に解釈でき、自分でも多面的にアプローチすることができる人材、例えば、ある社会現象を文学的に説明してみせることもできれば、数理的に説明することもできるし、はたまた、主婦(夫)の視点から解釈することもできるし、舞踏や映像で表現することもできる、そんな人材である。そのような人を育成するのには、当然、いろいろな知識や経験を積ませる必要がある。実技4教科の社会的地位向上と試験科目としての地位向上は、そんな人材育成にも貢献できると思う。

しかし、現実の社会が、山田君タイプの人に有利になっているのには理由がある。周知のことだと思うが、世の中の政治経済を動かすのに必要な人材は、山田君タイプであって、佐藤君タイプではない。佐藤君タイプの人材が不必要だというわけではないが、極端な話、山田君タイプの人材しかいない社会と佐藤君タイプの人材しかいない社会とを比べれば、腕力で地位が決まる時代でもない限り、前者の社会の方が長続きするだろう。ある程度の技術水準に達した社会では、事務処理能力が不可欠であり、この能力の所有者が、まさに山田君なのだ。社会維持に必要なものが「パンとサーカス」なのだとすれば、佐藤君は、サーカス担当であり、山田君は、パン担当である。いや、山田君は、パンとサーカスの配分を決めるような、もっと高い地位に遇されるような役割かもしれない。どちらにしても、社会にとっての山田君の重要さは、変わらない。

この案で重要なのは、その公平性にある。佐藤君にも山田君にも、有利な点と不利な点とが同じくらいの割合で配分されている。佐藤君は、5教科での得点不足を実技で補うことができるし、山田君の場合は、5教科での優位を実技でマイナスされる。これまでの仕組みであれば、山田君は、一日のほとんどを5教科の勉強に振り分ければ良かったのだが、新しい仕組みによって、実技にも一日数時間を割り振らなければならなくなる。結果、山田君タイプの人々に有利な社会が、佐藤君タイプの人と山田君タイプの人のどちらにも同程度の負担を強いる社会へと変わる。山田君は、これまでより生き辛くなるかもしれないが、実技4教科を習得する分、それだけ人生が豊かになるだろうし、人生の選択肢も増えることになるかもしれない。また、佐藤君は、山田君がハンデを負ったことで、相対的に競争が楽になる。とは言っても、5教科の成績が重要である点は、相変わらずなので、従来通り、5教科の成績向上に精進しなければならない。



世の中には、勉強のみが得意な山田君やスポーツのみが得意な佐藤君のようなタイプの他に、体育よりも家庭科や技術科を得意とする人、保健や美術を得意とする人、そういったタイプもいる。こうした人たちにとって、僕の案は、公平なのだろうか?おそらく、従来の試験制度と比べれば、彼らも報われるようになるとは言える。従来、実技4教科は、オマケのような存在だった。センター試験では、そもそも選択科目にすら含まれていない。高校の授業には、実技4教科の1つや2つが、カリキュラムに組み込まれているし、定期試験も行われているにも関わらず、である。実技4教科が、センター試験等の科目に組み込まれることで、その社会的地位は向上する。そして、当然のことながら、実技4教科を得意とする人の校内での地位も向上する。微分積分の問題に解答できる能力と陸上競技や本棚を上手に作る能力とが、等価とは言わないまでも、従来よりも対等なものとして評価されるようになるというわけだ。

その代わり、山田君の5教科の総合点は、いくらか低くなるかもしれない。社会全体の5教科の総合点の平均も低くなるかもしれない。なぜなら、一日が24時間であることは、変わらないのだから、試験科目の重要度が変動することで、5教科に割り当てる学習時間は少なくなると思われるからだ。山田君も、これまでとは違って、ジョギングなどで足腰を鍛えなければならなくなるし、縫い物や工作を自室で行うことになるだろう。これは、一見、山田君にばかり不利な改変のように思えるし、社会の活力を低めることになるようにも思える。でも、この見方は、山田君の側からの一方的なものだろう。佐藤君タイプの人間は、これまで、自分の苦手とする科目を無視するわけにはいかず、自分なりに闘ってきた。もちろん、闘わずに逃げた人も少なくないだろう。それでも、佐藤君たちは、苦手とする科目によって、職業選択の幅を狭められ、リスキーな人生を歩くしかなかった。だから、山田君も今度は、自分の苦手とする科目に対して、自分なりの闘いを繰り広げなければならなくなったというだけのことだ。また、既に書いたように、多芸な人材を社会が求めるようになっているのだから、社会の活力が低下するとは断定できない。

足元を見るということ

県立図書館で何冊か借りてきた。その中に、『夫婦別姓大論破!』(洋泉社)という本があるのだが、読んでいて驚かされた。驚かされたといっても本の内容にではない。何人前の借主だか知らないが、本の扱いの酷い人がいたらしく、角の折り曲げられたページがいくつも散見され、鉛筆による書き込みも目立った。

書き込みの内容をざっと見た感じでは、どうやら、本の主旨に反対の立場を採る人物の仕業のようだ。本のタイトルが「夫婦別姓大論破!」なのだから、当然、この人物の立場は、夫婦別姓推進派あるいは夫婦同姓反対派ということになる。加えて、自分も夫婦別姓を実践していて、人生がすこぶる快調な人物のようなのだ。

この人物が、なぜに、ページの余白を活用して、自分の身上&信条を語ったのかは分からない。もしかしたら、結婚生活からのストレスを溜め込んでしまっていて、その結果の暴挙なのかもしれない。理由は何であれ、この人物が考えなければならないのは、難しい制度や法律のことではない。

それにしてもマイッタ。この本を返却するのは僕なのだ。司書の人に「借りた本に書き込むとは何事か!」と叱られたらどうしよう。

因習の耐えられない重さ3

肉体に依存して生きることは、頭脳に依存して生きるよりもリスキーだ。これが、前回の結論だった。
運動のみが得意な佐藤君は、今回、無事にスポーツ推薦によって、志望した高校に入学した、と仮定して欲しい。もちろん、勉強のみが得意な山田君も、無事に志望高入学を果たした。今後、佐藤君は、スポーツに邁進し、山田君は、勉学に励むことになる。

前回書いたように、スポーツで成功する道は、とても険しい。成功者になれるのは、ほんの一握りだ。では、山田君の人生は、そんなにも平坦なのだろうか?そんなことはないだろう。ただし、これも前回書いたことだが、甲子園に出場できる選手の数よりも東大に入学できる人数の方が多い。東大に入学したからといって、その後の人生が順風だとは限らないが、山田君は勉強が得意なのであり、それはつまり、テストが得意なのであり、そうである限り、公務員試験に合格するにしても、何らかの国家資格に合格するにしても、山田君は、自分の能力を存分に活かせる。そして、最も重要なのは、ここでもやはり、そういった試験の合格者数は、箱根駅伝で名声を得られる選手の数や実業団の選手の数よりも多いであろうということだ。高校受験や大学受験に続き、ここでも、山田君の目の前に提示された選択肢の数は、佐藤君よりも多い。

ただ、そうは言っても、佐藤君が仮に、スポーツ選手としての生命を絶たれてしまった場合、まだ若い佐藤君には、やり直すだけの時間は残されている、と考えることは可能だ。スポーツ選手としての道は閉ざされても、勉強の道―山田君の道―を歩き直すことはできるかもしれない。僕も佐藤君の明るい未来を願っているので、この可能性に対してイエス!と答えたい。答えたいのだが、今回は、もっとネガティブな未来を想像してみたい。
「やり直す」、言うのは簡単だが、実践するのは難しい。もともと、佐藤君は、運動のみ得意な子供だったのだから、勉強への苦手意識は、人一倍強いだろう。だから、佐藤君の脳裏には、「テストが難しすぎて白紙で提出するしかない」というような暗い未来予想図が、日夜よぎっていることだろう。それに、実際、佐藤君が苦手を克服して、大抵の資格試験に合格でき、高くはないが安定した収入を得られるようになるのは、容易ではないだろう。


以上のようなネガティブな想像を、もしも佐藤君がしていたのなら、彼のスポーツ生命が絶たれることなく、それなりに順調であったとしても、彼は、自分の将来に対して、若干弱気になるかもしれない。言い換えるなら、スポーツ推薦で入学した志望校において、彼にとって、逃げ場のない状況が成立してしまう、と言えるだろう。

こうして、未来に対して臆病になっている佐藤君にとって、「この高校を卒業すれば、あるいは、この団体に所属していれば、スポーツ選手として成功する確率は高い」という期待や思惑が、反動として強まるということもあるだろう。彼の親たちの心の中でも、こうした思いは強まるかもしれない。そうであれば、生徒や選手は、その高校や団体に是が非でも留まろうとするだろう。「溺れる者は藁をもつかむ」というやつだ。ただ、彼らは、まだ溺れてはいない。高確率で溺れるであろう世界を生きているだけだ。崩れ落ちることが確約された吊り橋を渡らなければならないのなら、誰だって、落ちないような工夫を事前にしておこうとするだろう。



随分な遠回りをしてしまったが、ここでやっと、本筋にもどれる。佐藤君にとって、そして、彼の親にとって、吊り橋から落ちないための工夫とは、部活の因習を受け入れることであり、そういった因習の正当化であるだろう。某高校のバレー部で行われていた体罰や暴力、某柔道組織における体罰や暴力、こうしたことが因習として存続してきたその根っこの部分には、以上のような物語が、展開されていたのではないか?
某高校の入試そのものを取り止める云々といったことが、一時期世間の話題になった。「学校全体がくさっているのだから、教師を全て辞めさせてしまえ」という過激な見解もあったように思う。僕が思うに、問題の根は、いくつかの過激な発言をした人たちが思う以上に、根深い。

因習の耐えられない重さ2

あり得ない仮定ではあるが、ここに、勉強のみ得意な子供と運動のみ得意な子供の2人がいるとする。今後、勉強のみ得意な子供を山田君、運動のみ得意な子供を佐藤君と呼ぶ。もちろん、どちらも架空の人物だ。
小学生、中学生だったことのある人ならば、山田君と佐藤君、どちらが大人に評価されるかを、重々承知していることだろう。そう、大人に好評なのは、勉強のみ得意な子供―つまり、山田君―だ。おそらく、勉強が得意な子の方が、今後の人生においてリスクが少ないであろうと大人たちが信じているからだろう。多分、大人たちの判断は正しい。
スポーツ選手には、大企業の役員なんて目じゃないくらい、高い報酬を得ている人がいる。でも、国内に限れば、高い報酬を得ているのは、プロスポーツ選手のごく限られた人だけで、ほとんどの場合、有名企業の平社員よりも少ないか、どっこいか、というくらいの報酬を得て暮らしているのではないか?・・・・・・ただ、僕もスポーツ選手の報酬について調べたことがないので、以上のことは、テレビやラジオで知った雑多な情報を基にしたものでしかない。それでも、日本の多くの親たちが、僕のような見解を持っているのなら、結果として、自分の子供には、運動よりも勉強が得意な子であって欲しいと願うだろう。
親が、自分の子供に運動の才能があると感じた場合はどうだろうか?しかも、スポーツクラブに通わせたり、遠征試合の送り迎えをしたりするような、そこそこの経済的余裕がある家庭の親であれば、どうだろうか?未来のイ〇ローや浅田〇央になれたなら、子供自身も幸福になれるだろうし、宝くじに当たる以上のお金も手に入る(かもしれない)。あるいは、何十年に1人という天才になるのは無理だとしても、大企業に勤めるよりも豊かな生活を手にできるかもしれない。親や子供が、もし、そのように思ったのなら、彼らは、勉強よりもスポーツに重点を置くようになるかもしれない。自分の子供を佐藤君にしようとするかもしれない。
「勉強も運動も同じくらい頑張る」というのは、誰にでも出来るものではない。しかも、どちらもそれなりに高い成果を出そうとすれば、なおさらだ。そうであれば、勉強に重点を置けばスポーツがおざなりになり、スポーツに重点を置けば勉強が・・・ということになるだろう。
さて、最初に僕は、佐藤君よりも山田君の方が、リスクの低い人生を歩めるかもしれないと書いた。そして、世の親たちも、おそらく僕と同じような考えだろうとも書いた。だが、どうして僕がそう思うのかについては、まだ書いていなかった。以下では、そのことについて書く。もちろん、スポーツも勉強も得意という人がいないわけではない。バスケでインターハイに出場して、現役で東大に合格。そんな人だって1つの高校に数人くらいはいるだろう。でも今回は、そういった少数派については扱わない。そういった人たちは、どんな時代のどんな制度の下でも、とびきり運が悪いのでなければ、安心して生きて行けるだろうから。
話を元に戻そう。佐藤君が、山田君よりも不利な理由、それは、雑な言い方になるが、将来、職業を選ぶ際、あるいは、就職先を選ぶ際、選択肢の幅が狭いということだと思う。
「佐藤君の頭が悪いから、働き口がない」ということを言いたいのではない。日本に限った話ではないかもしれないが、職業選択や就職において重要なのは、未だに学歴だ。少なくとも、そう信じられている。学歴というのは、直接的に頭の良し悪しの指標になるわけではないけれど、いくつもの試験をパスしてきたということではある。試験というのは、小学校でのテストや中学校での中間・期末テストに始まり、大学入試のセンター試験や二次試験に終わるような一連の試験のことだ。そして、重要な点は、例えば、センター試験に実技4教科は含まれていないということだ。
中学や高校の期末試験には、実技4教科も試験科目に含まれている。でも、実技4教科もペーパーテストであって、実技そのものをその場で試されるわけではない。実技そのものは、試験日以外の通常授業の中で採点されるのみだ。実技教科において、授業中の実技の結果とペーパーテストの結果、どちらがどれだけの比重でもって成績に反映されるのかは知らない。だが、勉強のみ得意な子は、実技のペーパーテストで高得点をとる可能性が高いのに対して、運動のみ得意な子は、ペーパーテストで高得点をとるのが難しいかもしれない。加えて、運動が得意だからといって、技術家庭科の工作や手芸が得意とは限らないので、実技そのものにおいても、運動のみ得意な子のメリットは多くない。
以上のことだけから結論を出すのは早急に過ぎるが、小学校から大学までの道のりを、出来るだけスムーズに進みたいのであれば、やはり、運動よりは勉強に重点を置いた方が、有利な気がする。それでも、佐藤君にも逆転の手段は用意されている。そう、スポーツ推薦だ。いや、スポーツ推薦に限定しなくても、世間で重要視されている大会(例えば、オリンピックや高校総体など)に出場して好成績をとれば、内申点に大きく加味されることだろう。「勉強で頑張って成績を上げる」という道を何らかの理由で選ばなかった子供達は、こうして、運動に傾倒して行く。
「勉強で頑張って成績を上げる」道、「運動で頑張って成績を上げる」道、言い換えるなら、山田君の道と佐藤君の道は、形式的には、どちらも「〇〇で頑張って成績を上げる」のだから、同じようなものに思える。「結局、頑張って成績を上げることができれば成功し、成績が上がらなければ失敗する、というだけのことじゃないか?」とつっこむ人もいるだろう。でも、二つの道は、頭脳と肉体のどちらを主に使うか、という以外にも違いがある。
まず、すぐに気づくことだが、高校総体にしてもオリンピックにしても甲子園出場にしても、あるいは、県大会や市大会のようなもう少し地味な大会にしても、ひとつの競技で3位以内に入賞できる人数は、非常に少ない。3位入賞者が2人だとしても、計4人。オリンピックのようなレベルになると、代表選手に選ばれるだけでも相当な苦労だ。何しろ、同学年の相手だけでなく、他の世代すらライバルなのだから。
これに比べると、東大や京大に入学できる人数の方が、はるかに多い。高校野球選手で夏の甲子園に出場できる選手の総数は、1校あたり18人以内ということなので、最大で、18×49校=882人だ。対して、平成24年度東京大学入学者総数は、3153人。高校総体やオリンピックなどの出場者数も算出すべきなのだが、直感的には、山田君の方が、安全な道を歩けるであろうことは、分かってもらえるのではないだろうか。オリンピック出場とか甲子園出場ということを大学入学と同列に扱うのには無理があるのは確かだ。前者は、歴史に名を残すような偉業になり得るが、後者は、いくつかの資料を念入りに調べでもしない限り、名前は分からないだろうからである。ただ、今回は、どちらがより偉大になり得るかということではなく、どちらかどれだけリスクの少ない人生を歩き得るかということを考えたかったので、このような比較を行うことになった。

因習の耐えられない重さ1

バスケットボールや柔道で、暴力が話題になっている。少年時代が明治や大正だった世代は既にほとんど生きてはおられないであろう昨今、たいていの大人は、小学校⇒中学校⇒高校という義務教育+αを経験していることだろう。そうであれば、野球部やサッカー部の友人知人が、顧問や上級生に、蹴られたり、小突かれたり、怒鳴られたりしている様を見て(あるいは身をもって)知っているだろうから、スポーツの世界で暴力が問題になったところで、「今さらかよ」という半ば呆れた気持ちを抱いているのではないか。
学校というのは、良くも悪くも特殊な空間だ。それは大学も例外ではない。高校や大学を卒業する生徒・学生に向かって「君達は今日、社会へと旅たつわけですが〜云々」などと教員が言ったりすることがあるけれど、これも学校が特殊な空間であることを示していると思う。
社会というのが、仮に、血縁関係ではない他人との共生の場だとしたら、母親の胎内からオギャーと生まれた瞬間、そこには父や母の他に、助産士あるいは看護士や医師がいるわけで、既に赤ん坊は社会に巣立ったとも言える。もちろん、赤ん坊には、「社会のルールを意識的に守る」なんて出来ないし、破るだけの筋力や意思の力だって足りないのだから、社会に巣立ったという表現は大袈裟かもしれない。ただ、保育所や幼稚園、小学校や中学校は、アカの他人と共生せざるを得ない場所であり、ヒトは幼児程度に成長すれば、未熟なところは目立つものの、他人と生活するうえでのルール(やって良いこと・悪いこと)くらいは、ぼんやりとでも理解できるようになっているだろう。法律上は、ルールを破ったとしてもお縄にはならないから、社会で自立して(責任を負って)生活しているわけではないだろう。でも、社会に巣立ったか否かと問われれば、やはり、幼児は、こども社会にデビューしたと言えるのではないか。
そう考えると、高校生や大学生に「君達は〜云々」と送辞を述べるのは、奇妙なことに思える。それとともに、「これからは社会の一般的なルールに従って生きることになります」と警告しているようにも思える。どうやら、学校という空間で通用するルールは、一般社会とは違うらしい。

アゲインスト・マッスィーン

 去年のことだけど、googleの自動走行車が、ちょっとしたニュースになった。米国のある州では公道を走ることができるようになったとか、あと数年で実装した自動車が市場に出回るだろうとか、「明るい」論調のようだった。ただ、課題は残されているらしく、1)事故の際、責任は誰が負うのか、2)予測不能な障害物には対処できないかも、3)失業者(タクシードライバーなど)の大量発生、4)運転の楽しみを奪われる、以上の4つが、主要な課題らしい*1
 1番目の課題に関しては、新しい技術が普及する際には、常に生じるものだろう。現行のルールで対応できなのは当たり前のことなので、少しずつルールの改変や整備を進めるしかない。2番目の課題は、一番重要なのではないかと思う。ルールの改変や政策の実施といった方法では、どうにもならない。自動走行の技術そのものの発展、あるいは、障害物を取り除いたり、発生を事前に防いだりする技術が開発しない限り、克服の難しい課題だ。3番目の課題も、仮に自動走行技術の実用性が確かなものとなった場合、大きな社会問題になるだろう。打ち壊しみたいなことだって起こるかもしれない。でも、自動走行と言っても、もしもの時に備えて、機械のメンテナンスや助手のような役割を担う人は必要だろうから、自動走行技術の普及が、即大量失業というふうにはならないのではないか。大量失業が見込まれるような場合は、政府や社会全体で、失業者たちの諸権利が守られるよう協力することになるだろう。4番目の課題は、ある価値観の持ち主にとっては、確かに深刻な問題かもしれない。ただ、彼らにはかわいそうなことだけど、そうした価値観が、世論を動かすほどの大きな勢力を持つとは思えないので、おそらく多数派の圧力によって、軽視あるいは無視されてしまうだろう。
 自動車を運転することに、何の思い入れもない(というか免許を持っていない)僕のような人間にとっては、自動走行技術の実用化は、喜ばしいことだ。でも、個人的な疑問なのでさっきの課題リストには挙げなかったけれど、自動走行技術を搭載した自動車は、その技術を搭載していない自動車と共存できるのだろうか?共存という言い方は、適切ではないかもしれない。僕が言いたいのは、次のようなことだ。課題の2番目にも挙がっているように、自動走行技術は、予測不能な出来事に弱い。だとすれば、人間の運転する自動車は、そのものズバリ予測不能な動きをする運動体と言える。だから、自動走行技術の普及過程では、この技術を搭載した自動車と搭載していない自動車が、同じ道路を行き交うことになるわけだけど、これは、自動走行技術を搭載した自動車から見れば、道路を予測不能な障害物が、自分と同じ速度で走り回っているということだ。
 自動走行技術は、人間よりも安全な自動車運転を提供できるという話がある。僕もこれは肯定できる話だと思う。ただ、この肯定は、世の中の全ての自動車にこの技術が搭載されたら、という条件付きの肯定だ。もしかしたら、自動走行技術最大の課題は、この技術の普及過程にあるのかもしれない。高度なコンピューター最大の障害物は、凡庸な人間ということなのか?