因習の耐えられない重さ1

バスケットボールや柔道で、暴力が話題になっている。少年時代が明治や大正だった世代は既にほとんど生きてはおられないであろう昨今、たいていの大人は、小学校⇒中学校⇒高校という義務教育+αを経験していることだろう。そうであれば、野球部やサッカー部の友人知人が、顧問や上級生に、蹴られたり、小突かれたり、怒鳴られたりしている様を見て(あるいは身をもって)知っているだろうから、スポーツの世界で暴力が問題になったところで、「今さらかよ」という半ば呆れた気持ちを抱いているのではないか。
学校というのは、良くも悪くも特殊な空間だ。それは大学も例外ではない。高校や大学を卒業する生徒・学生に向かって「君達は今日、社会へと旅たつわけですが〜云々」などと教員が言ったりすることがあるけれど、これも学校が特殊な空間であることを示していると思う。
社会というのが、仮に、血縁関係ではない他人との共生の場だとしたら、母親の胎内からオギャーと生まれた瞬間、そこには父や母の他に、助産士あるいは看護士や医師がいるわけで、既に赤ん坊は社会に巣立ったとも言える。もちろん、赤ん坊には、「社会のルールを意識的に守る」なんて出来ないし、破るだけの筋力や意思の力だって足りないのだから、社会に巣立ったという表現は大袈裟かもしれない。ただ、保育所や幼稚園、小学校や中学校は、アカの他人と共生せざるを得ない場所であり、ヒトは幼児程度に成長すれば、未熟なところは目立つものの、他人と生活するうえでのルール(やって良いこと・悪いこと)くらいは、ぼんやりとでも理解できるようになっているだろう。法律上は、ルールを破ったとしてもお縄にはならないから、社会で自立して(責任を負って)生活しているわけではないだろう。でも、社会に巣立ったか否かと問われれば、やはり、幼児は、こども社会にデビューしたと言えるのではないか。
そう考えると、高校生や大学生に「君達は〜云々」と送辞を述べるのは、奇妙なことに思える。それとともに、「これからは社会の一般的なルールに従って生きることになります」と警告しているようにも思える。どうやら、学校という空間で通用するルールは、一般社会とは違うらしい。