生々しさについて3

他人の気持ちになる、これは比喩表現だ。他人の気持ちは、どこまでも他人のものなので、自分のものになるはずがない。そして、自分が他人になることもありえない。しかし、「他人の気持ちになって考えろ」などと言って、他人に注意を促す人は多い。

ヒラリーの言葉が届かなかった人がいて、トランプの言葉が届かなかった人もいた。言葉が届かなかった理由は、おそらく生々しさの欠如である。ヒラリーの言葉は、知識人や文化人には生々しい言葉だった。トランプの言葉は、それ以外の人々にとって生々しいものだった。

日本のテレビでは、時折、トランプ支持者の教養の低さや情報取得能力の低さが指摘されている。私もその指摘自体は間違っていないと思う。しかし、教養が低いから、情報に通じていないから、といった理由でトランプを支持したわけではないだろうとも思う。支持者達も我々と同じように普通に働き生活しているのだから、我々と同じような常識を持っているはずだ。そうでなければ、庶民として真っ当に暮らすことなんてできないだろうから。

彼らがトランプを支持した理由、それを一言にまとめれば、トランプの言葉が、彼らにとって生々しかったからだろう。リアリティがあったと言い換えてもいい。彼らがヒラリーを支持しなかった理由も、やはり彼女の言葉にリアリティがなかったからだろう。

自分の言葉にリアリティを持たせるには、冒頭で言った「他人の気持ちになる」ことが必要だ。もちろん比喩で言っている。他人の気持ちになるとは、他人の置かれた状況に自分が立った時のことをできるだけ正確に想像することである。そのためには、他人の状況を正確に分析して理解しなければならない。正確な分析と理解、これは、誰にでもできることではない。研究者になるべく訓練を受ける、企業したり組織運営したりしてトライ&エラーの連続の中で学ぶ、等々という経験を経なければ身に着けられないであろうスキルである。つまり、ヒラリー支持者の少なくない人々が身につけていたであろうスキルである。

トランプもヒラリーもこのスキルを持っているに違いない。前者は、経営者やタレントとしての経験から、後者は、大学院生や政治家としての経験から、このスキルを身につけているはずである。そして、前者は、このスキルを人気獲得のため最大限活用し、後者は、このスキルを人気獲得のため少しだけ活用した。それが今回の選挙結果である。

私は、トランプが好きではない。でも、ヒラリーは明確に嫌いである。さらに、ヒラリー支持者のことも嫌いである。その理由は、他人の置かれた状況を正確に分析し理解するスキルを持っていながら、それを満足に活用せず、トランプ支持者なる人々を生み出したからである。加えて、トランプ支持者達が、なぜトランプを支持しているのかを未だに分析しようとしていないからである。馬鹿な奴らがトランプを支持した、そのような全く知的でない分析しかできないのであれば、ヒラリーを支持した人々も馬鹿な奴らということになるだろう。しかも、十分な教育を受けてもなお馬鹿なままの奴らということになる。トランプ支持者よりも酷い有様ではないだろうか?