生々しさについて4

他人の心の痛みを想像する。これは、差別やヘイトスピーチを無くすために必要なことだと思われている。少なくとも法務省は、そう思っているようだ。

ただ、残念なことに、他人に嫌がらせをしたり、差別をしたりする人は、他人の心の痛みを想像できる。想像できるからこそ、相手の嫌がることを計画できるのだ。仮に、彼らにそういった想像力が欠如していた場合、彼らは、差別の対象となる人にバラの花束をプレゼントしたり、口座に10万円振り込んであげたりするだろう。他人がどんなことで傷つくのか想像できないのだから、トンチンカンなことを実行してしまっても不思議ではない。

犯罪者には善悪の区別がついていない。こうした意見を唱える人もいるけれど、同じ理由で、犯罪者の多くは善悪の区別ができている。できているからこそ犯罪を隠そうとするし、警察から逃げたりするのである。

義務教育では、道徳の授業が本格的に始まるらしい。そこで意図されている道徳は、やはり「善いこと」を教えることが狙いのようだ。誰もが子供だったことがあるはずなのに、大人になると子供の頃のことを忘れてしまうらしい。子供は、善悪の区別がつかないからいじめるのだろうか?善悪の区別がつかずにいたずらするのだろうか?

いたずらもいじめも、ある行為がいたずらやいじめであると自覚していなければ成り立たない行為である。差別も犯罪もそうである。世の中のほとんどの悪事や不道徳は、自覚した人によって行われている。だから、善悪の区別を教えたり、相手の気持ちを想像させたりすることに、善行を促進する効力があるとは思えないし、悪行を減少させる効果があるとは思えないのである。

では、世の中の悪事や不道徳を減らそうと願う人は、何をすれば良いのだろうか?