恐怖!人工知能男

 機械に仕事を奪われる。人工知能に仕事を奪われる。どちらも短期的・中期的な出来事としては起きたであろうし、起きるであろう出来事だ。なぜそんな悲劇が起きるのかといえば、人間の労働力も機械や人工知能の労働力も商品だからである。正確には、機械や人工知能の場合は、労働力とは言わない。ついでに、商品の値段が下がることが、決して良いことではないという理由も、人間の労働力も商品だからだ。

 機械も人工知能も、1つの仕事を丸々人間から奪うということはしない。例えば、銀行業の全ての仕事を奪うということはない。投資先を考えるという銀行業の仕事の一部を奪うことはあるかもしれない。あらゆる医師の仕事を奪うということもない。診断という医療行為の一部を奪うことはあるかもしれないが。

 機械が人間の仕事を奪うためには、まず、分業とか協業とか、1つの仕事をバラバラに解体する試みが必要だった。当たり前だ。人間のやっていた仕事を丸ごと奪うためには、人間と瓜二つの機械仕掛けの人形が必用だからである。でも、現代だって、完璧な機械人間は実現していない。だから、仕事をバラバラに解体し、機械でも請け負えるような形態に変える必要があった。人工知能が仕事を奪う過程も同じだろう。まず、人間の仕事をバラバラにしてみて、人工知能に委ねられそうな部分を委ねることになるだろう。

 その際、どのような仕事が人工知能に任されるのか?それは、「人工知能に仕事を委ねることで発生するコスト<人件費」となる仕事、かつ、技術的に人工知能に置き換え可能な仕事だろう。だから、低賃金の仕事は、今までどおり人間が行うことになるはずだ。それと、人間がやることに意味がある仕事は、人工知能の脅威から守られる。

 今のところ、人工知能の新しさのお陰で、囲碁や将棋での人工知能の活躍が注目されているが、「記録と計算を専用とする機械なんだから、人間より強いのなんて当たり前だろ」と人々が思い始めれば、注目度は下降してゆくことだろう。戦車の方が人間よりも堅い、空手チョップよりも日本刀の方がよく斬れる、電卓の方が人間よりも計算が速くて正確、といった考え方が、人々を何ら驚かせはしないのと同じである。

 仕事の中には、人間が実行することで始めて意味が生まれるものがある。チーターが100メートルをオリンピック記録よりも優れたタイムで駆け抜けたとしても、人間が同じことをした時よりは驚いてもらえないし、評価してもらえない。コンピューターが一晩かけて円周率を50桁まで導き出したとしても、小学3年生が徹夜して円周率を20桁まで導き出したときのような感動や賞賛は得られない。人間は、基本的に可塑であり、何が可能で不可能なのかが未知である。だから、赤ん坊が初めてハイハイした時も、初めてつかまり立ちした時も、周囲の大人は感動する。ハイハイもつかまり立ちも大抵の人間はできることなのに、感動してしまうのは、「出来ないかもしれない」という不可能性が常に人間にはまとわり付いているからだ。

 機械や人工知能には、可能性しかない。いや、違うな。可能性というよりも定まった結果以外無いと言ったほうが良いだろうか。また、チーターや蟻などの人間以外の生物にも、やはり不可能性は無い。この「不可能性を乗り越えてみせる」という行為を必須とするような仕事は、人間の仕事であり続けるのだろう。例えば、どんな仕事が挙げられるだろうか?今のところ、「芸能」「スポーツ」くらいしか思い浮かばない。もっとたくさんの具体例を挙げられるようになることが今年の課題であるな。