生々しさについて1

 私は、トランプ勝利が、彼の勝利によってもたらされたものではなく、ヒラリーに代表される「良心的」知識人の敗北によるものだと思っている。では、どうして「良心的」知識人は敗れたのか?それは、生々しさの欠如なのだと思う。そんな話を前回もしたが、今回は、生々しさについて考えを深めたいと思う。
 私が人々の言動に生々しさを感じるのは、その言動が当人の経験に裏付けられていたり、よほどのことでもない限り取り下げるつもりのない価値観に基づいたものだったりする場合である。つまり、本気の言動に生々しさを感じるのである。だから、血の付いたナタを手にした大男が「ぶっ殺してやる」と言えば、そこには生々しさがあるし、今手持ちの現金を失ったら自分の工場が倒産してしまうという状況にある町工場の社長が、金融会社に借金取立ての延長を願って土下座しているとしたら、その土下座にも生々しさがある。
 私から見て、テレビのコメンテーターをするような知識人は、社会の様々な問題に言及する能力のある優秀な人であると同時に、社会の様々な問題に言及する程度に移り気で、本気さの足りない人である。もちろん、彼らは生活のためにコメントしているのであり、多種多様な問題に対してコメントできなければ、生活の糧を失ってしまう。それに、彼らは心のそこから社会を良くしようとしてコメントしているのかもしれず、彼らの本当の気持ちは、誰にも分からない。それでも、やはり、多種多様な問題にコメントできてしまう姿勢は、彼らの持っているかもしれない本気さを殺いでしまうように思うし、世界の中で私ひとりは確実にそう感じている。つまり、良くも悪くも余裕があるように見えてしまうのだ。
 テレビのコメンテーターだけではない。新書で次から次へと著作を発表しているような知識人も、やはり、八面六臂に活躍することでかえって1つの問題を追究しようとはしていないかのように見えてしまう。社会派の芸術家、社会派の俳優、そういった人たちにも同様のことが言える。

 安全な場所から様々な警鐘を鳴らしても、その音色に生々しさは宿らない。もしも、トランプ支持者たちが私とよく似た考え方や感じ方をする人々であるのなら、テレビや新聞を通じて、本来であれば頼りになるはずの人々の本気の無さ、生々しさの欠如を味わい、結果として、彼らに不信感を抱くようになったのだろう。「本気で問題を解決しようとするならば、その問題のためだけにヘトヘトになり、四方八方の分野で活躍することは物理的に不可能なはずである。」そんな風に思ってしまい、そうではない人々を信じられなくなったのだろう。戦争、差別、貧困、これらは人類の歴史とともにあり続けたようにすら思える問題であり、非知識人であっても、解決困難であることは理解できる。いや、彼らにとって、こういった問題は身近な問題で、しかも、簡単には無くならないことを実感できてしまう問題だ。そうだとすれば、戦争にも差別にも貧困にも、加えて、日々の窃盗や殺人といった犯罪にも言及できてしまう知識人は、きっと問題を解決するつもりはないのだろうと思えてしまったのだろう。
 
 では、トランプ氏は本気なのか?このことについては、次回考えてみようと思う。