彼らは何に失望したのか

 トランプ氏が大統領選で勝利した。文化人、知識人は失望したり、当惑したりしている。僕にとってトランプもヒラリーもどうでも良い存在ではあるが、ヒラリーを嫌った人たちの気持ちは、何となく分かる。それは、洗練された人々に対する「きれいごとぬかしやがって」という気持ちではないか?トランプを支持したのが、中間層とそれ以下の層の人々であるのなら、彼らにとって差別や貧困は、ひたすら現実である。また、洗練された人々と比べて、自分たちの方が、差別や貧困を知っているという自負もあるのではないか。
 がんばっても成功しなかった人にとって、「がんばればきっと大丈夫」という言葉は、この上ない暴言かもしれない。差別する以外に自分らしさを確保できない人にとって「差別は悪」という断言は、聞く意味のない言葉かもしれない。あるいは、日常の軽口のなかに多様な差別語がちりばめられているような人々にとっては、自分たちの言葉を奪う暴力ですらあるかもしれない。
 洗練された人々は、彼らの敵を知ろうとしなかった。守るべきか弱き味方のことを実は知らなかった。彼らの敵も味方も彼らにとっては余りに小さい存在だった。だから余計に理解しようと思えなかったし、そもそも見落としていた。彼らの敵は、大企業や独裁者や官僚であって、町工場のオヤジや下町のチンピラではなかった。彼らの味方は、大学教授や世界的アーティストであって、飲んだ暮れのトムやあばら家住まいのナンシーではなかった。
 洗練されてくると、人は、「世界」という言葉を多様する。世界の貧困、世界の差別、そういったものを解決しなければならないと主張するようになる。でも、貧困も差別も、世界に在るものではない。貧困も差別も隣近所のボブとジャックの間にある。世界の貧困を解決しようとする前に、知人の貧困を解決することが、実は重要だったのだろう。世界の差別を解決しようとする前に、路上で見かけた差別を解決しなければならなかったのだろう。もちろん、そうした活動に従事している人は多数いるけれど、それではまだ数も資金も足りていないのだ。
 システムを構築すれば、効率良く大量の人々を助けることができるかもしれない。しかし、システムは、人と人の距離を遠くし、言葉を届きにくくする。遠くに居る人のことは理解できないから、言葉も通じ難くなる。例えば、デモ行進も、システマティックである。直接対象を救うのではなく、世界を通じて間接的に救おうとする意味において。間接的な活動は、100年後の貧困を撲滅するかもしれないが、来週の家賃については無関心である。
 結果として、システムは、トランプ支持者を増やした。いや、洗練された人々への嫌悪感を増大させた。効率良く大量の人々を助けたのかもしれないが、誰をどんな風に助けたのかは、分からないままなのである。