空気を読む

 「日本人は空気を読む」という説がある。科学的に検証されたわけではなく、おそらく山本七平のような権威の力を借りてふりかざされている説ではないか?空気を読むということは、その時々の場の状況に適した行動や言説を選択するということであり、それならば、日本特有のこととは言えない。西洋でも東洋でも、行為や言説や服装に公私の区別がある。その場にふさわしくない発言をして皆を白けさせる人物というのは、海外ドラマにも日本のドラマにも登場する。
 空気を読むことが、日本以外の国でも見られるのならば、どうして私たちは、空気を読むという発想や行為をこんなにも気にするのだろうか?回答は3通りあると思う。ひとつは、日本人の単なる思い込みでしかないというもの。二番目は、やはり空気を読むのは日本人特有のものであり、冒頭で私の書いたことは、全て私の思い込みであるというもの。最後は、問題視されているのは、空気を読むこと自体ではなく、より深刻な問題点が隠されているというものである。今回は、最後の回答について考えてみたい。
 仮に、世界中の人々が空気を読むのだとして、それでも日本人の空気の読み方には、他の国々の人たちが顔をしかめるような要素がある場合、その要素とは何だろうか?私が思い当たるのは、明文化されたり、暗黙の了解化されたりしたルールが、極端に少ないということである。つまり、どのような国であっても人間社会の中で生きる以上、空気を読まなければならないことは少なくないのだとしても、日本社会においては、空気の変化を読まなければならない機会が、短い時間に何回も訪れるのではないか?ということだ。そして、こんなことが起きてしまう要因のひとつが、共有すべきルールとして了解されている事柄が少ないことなのではないか?ということだ。
 ある時ある場所での守るべきルールが、事前にある程度定められており、そのルールをそこに参加する人々が共有しているのならば、空気を読む必要はほとんどない。例えば、日本人は、電車に乗る際、まずは降りる人に道を譲り、彼らが全て降りてから電車に乗り込む。この一連の行為は、空気を読んで行うのではない。特に明文化されていなくても、そういったルールがあるものとして、日本人同士広く共有しているわけだ。エレベーターやエスカレーターの乗り降りについても同様のことが言えるし、冠婚葬祭の服装や言動についても、多くの場合、私たちは、空気を読むまでもなく、粗相の無いよう過ごすことが出来る。
 ただし、知人たちと複数で何気なく歩道を歩いているとき、友人たちと何気ない日常的な会話を交わしているとき、私たちは、空気を読む。なぜなら、知人たちと歩道を何気なく歩くときのルールや何気ない会話を友人と交す際のルールといったものを私たちは知らないからである。それに、おそらく、そんなルールは存在しない。
 何気ない場所で何気ない時間に何気なく居るとき、私たちは、空気を読む。この「何気ない場所で何気ない時間に何気なく居る」という状況は、広い意味で公的な時空に身を置いているという状況である。しかし、駅のホームやエレベーターやエスカレーター、加えて、冠婚葬祭といった時空と比べると、「何気ない時空」は、公的な性格が弱い時空である。人によっては、まるで当然のことのように、これらは私的な時空だと見なすかもしれない。公私の境界線が見えにくい時空において、私たちは空気を読む。なぜなら、明確なルールが確立されておらず、そこにいる人々が自力でルールを作らなければならないからである。しかし、そこで確立されたルールには持続性がなく、人々がその時空から離れれば、また消えてしまってゼロになる。
 私の思い込みが多分に詰まった論考ではあったけれど、上述のことを前提とするのならば、「日本人は空気を読む」ということが問題なのではなく、「日本には公私の境界線が曖昧な時空が多いのかもしれない」ということが問題なのだろう。そして、これも私の山勘だが、西洋化の進んだ非西洋の国々も同様の問題を抱えているのではないだろうか?そんな気がする。