戦をたしなむ

 戦国武将達が天下統一を目論んだ理由は分からないし、平和を実現するためだったとも思えないが、どれほど勇ましい武将であっても死ぬのは嫌だったに違いない。その意味では、万人が戦を嫌っていたとも言える。同じことは近現代にも当てはまるだろう。戦犯とされた人々も戦争で巨万の富を得た企業家も、戦で死ぬのは嫌だったはずである。にも関わらず、企業の中には武器兵器を販売して利潤を得ているところは少なくないし、他国に戦争を仕掛けたい権力者も少なからずいる。
 世の中には、絶対に儲からないなどと断言できる事象は存在しない。どんな出来事でもアイデア次第でビジネスチャンスにつながる。特に、戦争は、世界全体の損得という点で見れば損失の方がより大きいと言う人もいるが、個人レベルで見れば、大もうけする人は確実に存在する。戦争はもうかる、というのは嘘ではない。戦争をビジネスチャンスとして活用できる人は、戦争は好ましい出来事だと考えるかもしれない。しかも、自分や自分の大切な人々の安全が保証されているのなら、反戦を主張する理由はないのかもしれない。人道に反すると非難する人はいるだろうけど、「儲かったお金で1000人の人間を幸福にできたなら、100人くらい死んだとしても人道に反することはない」という「人道的な」考え方をする企業家は、大量の兵器を売って、大儲けするだろう。
 「儲かったお金で1000人の人間を幸福にできたなら、100人くらい死んだとしても人道に反することはない」という考え方を邪悪だと感じる人がいるかもしれない。でも、実のところ、この考え方は、私たちにとって馴染み深い考え方である。自動車事故で多数の人が死んでいるし、スマートフォンやTシャツが安価で販売されている裏側には、いくつかの過労死が隠されている。居酒屋や介護施設でも、酷い扱いを受けて廃人や死人になってしまった従業員がいる。それでも私たちは、自動車や安価な衣服の恩恵を受けているし、居酒屋で楽しみ、介護施設を利用している。1000人の幸福と引き換えに、100人の人間が犠牲になったようなものである。世の中をバランスシートで考える限り、犠牲者が存在するという事実に私たちは寛容になれるようだ。
 現実が悲劇的であるのは、世の中には司令室に居られる人と兵士として塹壕の中にしか居られない人の二種類がいるということである。司令室の人間と塹壕の人間とでは、同じ主戦論を唱えているとしても、唱える理由が異なるかもしれない。前者は、1000人の幸福のために戦争を推進し、後者は、100人の犠牲者にならないために戦争を推進する。司令室の人間は、戦場に赴くか否かを選択できるが、塹壕の人間にそんな選択権はない。選択権が無い以上、与えられた環境で生き残るしかない。兵士以外の仕事に就けない人間は、兵士になって生きようとする。結果として戦争推進に加担することになる。戦場では、生き残るために殺さなければならない。これも結果として戦争を加速させる。
 スマフォや衣服が安価であることを望むのは、それらが高価だった場合、生活が苦しくなるからかもしれず、安い居酒屋を利用するのも高価な娯楽を選択できないからかもしれない。悪辣な労働環境の介護施設を利用するのも、やはり選択肢がないからかもしれない。選択肢のない人々が、戦時中には塹壕に向かい、平和な時には安価なサービスへ向かう。こういった光景を地獄絵図と呼ぶのかもしれない。