因習の耐えられない重さ4

憶測と妄想に基づいて議論してきたが、これまでの話を要約しておく。

僕の限られた経験では、学問(国語、数学、社会、理科、英語)をがんばる方が、スポーツをがんばるよりもリスクが低い。しかも、一度スポーツでがんばる生き方を選んでしまうと、その道で失敗してしまい、別の生き方を選択しなければならなくなった場合、やり直しが難しい。そのため、スポーツに特化した人生を生きている人たちは、今まさに悪辣な境遇に身を置かざるをえないとしても、そこから逃げ出せない。あるいは、逃げ出すために、人並み以上の勇気や経済的な強さ、加えて、支援してくれる人たちの存在が欠かせない。しかし、勇気とお金と信頼できる人、この三拍子がそろっている人というのは、おそらく多くはない。結果として、自分達の置かれた悪辣な状況を正当化したり、教師やコーチの悪事を黙認したりといった選択をしてしまう。

以上のことが妥当な見解だとして、こういった現実を克服するには、どうすれば良いだろうか?提案する前に、まずは問題の核となる事柄について整理してみよう。問題の核心は、スポーツよりも学問の方が潰しが利くということにある。既に書いたことだけど、5教科が得意な人は、公務員試験をはじめとする様々な国家資格試験を受験する際、5教科が苦手な人より有利だ。特に、高校で学習する範囲を得意とする人であれば、最難関と言われるような資格試験もパスできるだろう。そのため、スポーツのみ頑張ってきた人よりも就職や転職で有利だ。
それに、これも書いたことだけど、スポーツエリートとして生きてゆける人の数は、学問のエリートとして生きてゆける人の数よりも少ない。東大入学者数と高校野球の甲子園大会出場者数とを比べても、人数制限にかなりの開きがある。とても雑な言い方になるけれど、つまり、5教科さえ得意であれば、よほど不運な人でもない限り、そこそこ安心な人生が約束されているということだ。


佐藤君も山田君も同じくらいの快適な人生を歩けるような社会を実現するためには、どうすれば良いか?実は、僕には、案が1つだけある。それは、高校入試や大学入試(センター試験含む)に、実技4教科を加えるというものだ。ただし、実技4教科は、ペーパーテストではなく、実技を問うものにする。さらに、配点も、5教科と実技4教科とを同じにする。つまり、

国語・数学・理科・社会・英語⇒それぞれ100点満点
保健・体育⇒100点満点
技術・家庭⇒100点満点
音楽⇒100点満点
美術⇒100点満点

ということだ。ただ、保健と体育、技術と家庭をそれぞれ別々の教科として扱うべきか、それとも、従来通り、1つのまとまりとして扱うべきか、という問題が残されている。これは後々の課題である。
また、こっちは重要なことなので書いておかなければならない。実技4教科の試験内容は、実技である。どんな内容にすべきなのかは決まっていないが、保健体育であれば、人形を使った人工呼吸や人命救助の実践テスト。技術家庭であれば、本棚なりハンカチのパッチワークなりを、時間内に一定の品質で仕上られるかを試す。音楽であれば、課題曲を指定されている楽器を使って演奏できるか試す。美術であれば、同一のモデルを模写させてデッサン力を試す。というように、ともかく技術を競うものにするということだ。



実技試験の実施によって、試験期間は長期化するだろう。採点も手間の掛かるものになるに違いない。人件費や諸費用が爆発的に増える可能性はあるので、費用的に実現不可能ということは十分にある。それでも、この案は、公平性という点で、そこそこ良いのではないかと自負している。加えて、第3次産業が主流となった昨今において、事務処理だけが得意な人材というのも、従来より重要視されなくなっている。求められるのは、自分で考えて自分で行動する人材、嫌味な言い方をすれば、器用貧乏一歩手前な人材なのだろう。物事を多面的に解釈でき、自分でも多面的にアプローチすることができる人材、例えば、ある社会現象を文学的に説明してみせることもできれば、数理的に説明することもできるし、はたまた、主婦(夫)の視点から解釈することもできるし、舞踏や映像で表現することもできる、そんな人材である。そのような人を育成するのには、当然、いろいろな知識や経験を積ませる必要がある。実技4教科の社会的地位向上と試験科目としての地位向上は、そんな人材育成にも貢献できると思う。

しかし、現実の社会が、山田君タイプの人に有利になっているのには理由がある。周知のことだと思うが、世の中の政治経済を動かすのに必要な人材は、山田君タイプであって、佐藤君タイプではない。佐藤君タイプの人材が不必要だというわけではないが、極端な話、山田君タイプの人材しかいない社会と佐藤君タイプの人材しかいない社会とを比べれば、腕力で地位が決まる時代でもない限り、前者の社会の方が長続きするだろう。ある程度の技術水準に達した社会では、事務処理能力が不可欠であり、この能力の所有者が、まさに山田君なのだ。社会維持に必要なものが「パンとサーカス」なのだとすれば、佐藤君は、サーカス担当であり、山田君は、パン担当である。いや、山田君は、パンとサーカスの配分を決めるような、もっと高い地位に遇されるような役割かもしれない。どちらにしても、社会にとっての山田君の重要さは、変わらない。

この案で重要なのは、その公平性にある。佐藤君にも山田君にも、有利な点と不利な点とが同じくらいの割合で配分されている。佐藤君は、5教科での得点不足を実技で補うことができるし、山田君の場合は、5教科での優位を実技でマイナスされる。これまでの仕組みであれば、山田君は、一日のほとんどを5教科の勉強に振り分ければ良かったのだが、新しい仕組みによって、実技にも一日数時間を割り振らなければならなくなる。結果、山田君タイプの人々に有利な社会が、佐藤君タイプの人と山田君タイプの人のどちらにも同程度の負担を強いる社会へと変わる。山田君は、これまでより生き辛くなるかもしれないが、実技4教科を習得する分、それだけ人生が豊かになるだろうし、人生の選択肢も増えることになるかもしれない。また、佐藤君は、山田君がハンデを負ったことで、相対的に競争が楽になる。とは言っても、5教科の成績が重要である点は、相変わらずなので、従来通り、5教科の成績向上に精進しなければならない。



世の中には、勉強のみが得意な山田君やスポーツのみが得意な佐藤君のようなタイプの他に、体育よりも家庭科や技術科を得意とする人、保健や美術を得意とする人、そういったタイプもいる。こうした人たちにとって、僕の案は、公平なのだろうか?おそらく、従来の試験制度と比べれば、彼らも報われるようになるとは言える。従来、実技4教科は、オマケのような存在だった。センター試験では、そもそも選択科目にすら含まれていない。高校の授業には、実技4教科の1つや2つが、カリキュラムに組み込まれているし、定期試験も行われているにも関わらず、である。実技4教科が、センター試験等の科目に組み込まれることで、その社会的地位は向上する。そして、当然のことながら、実技4教科を得意とする人の校内での地位も向上する。微分積分の問題に解答できる能力と陸上競技や本棚を上手に作る能力とが、等価とは言わないまでも、従来よりも対等なものとして評価されるようになるというわけだ。

その代わり、山田君の5教科の総合点は、いくらか低くなるかもしれない。社会全体の5教科の総合点の平均も低くなるかもしれない。なぜなら、一日が24時間であることは、変わらないのだから、試験科目の重要度が変動することで、5教科に割り当てる学習時間は少なくなると思われるからだ。山田君も、これまでとは違って、ジョギングなどで足腰を鍛えなければならなくなるし、縫い物や工作を自室で行うことになるだろう。これは、一見、山田君にばかり不利な改変のように思えるし、社会の活力を低めることになるようにも思える。でも、この見方は、山田君の側からの一方的なものだろう。佐藤君タイプの人間は、これまで、自分の苦手とする科目を無視するわけにはいかず、自分なりに闘ってきた。もちろん、闘わずに逃げた人も少なくないだろう。それでも、佐藤君たちは、苦手とする科目によって、職業選択の幅を狭められ、リスキーな人生を歩くしかなかった。だから、山田君も今度は、自分の苦手とする科目に対して、自分なりの闘いを繰り広げなければならなくなったというだけのことだ。また、既に書いたように、多芸な人材を社会が求めるようになっているのだから、社会の活力が低下するとは断定できない。