因習の耐えられない重さ3

肉体に依存して生きることは、頭脳に依存して生きるよりもリスキーだ。これが、前回の結論だった。
運動のみが得意な佐藤君は、今回、無事にスポーツ推薦によって、志望した高校に入学した、と仮定して欲しい。もちろん、勉強のみが得意な山田君も、無事に志望高入学を果たした。今後、佐藤君は、スポーツに邁進し、山田君は、勉学に励むことになる。

前回書いたように、スポーツで成功する道は、とても険しい。成功者になれるのは、ほんの一握りだ。では、山田君の人生は、そんなにも平坦なのだろうか?そんなことはないだろう。ただし、これも前回書いたことだが、甲子園に出場できる選手の数よりも東大に入学できる人数の方が多い。東大に入学したからといって、その後の人生が順風だとは限らないが、山田君は勉強が得意なのであり、それはつまり、テストが得意なのであり、そうである限り、公務員試験に合格するにしても、何らかの国家資格に合格するにしても、山田君は、自分の能力を存分に活かせる。そして、最も重要なのは、ここでもやはり、そういった試験の合格者数は、箱根駅伝で名声を得られる選手の数や実業団の選手の数よりも多いであろうということだ。高校受験や大学受験に続き、ここでも、山田君の目の前に提示された選択肢の数は、佐藤君よりも多い。

ただ、そうは言っても、佐藤君が仮に、スポーツ選手としての生命を絶たれてしまった場合、まだ若い佐藤君には、やり直すだけの時間は残されている、と考えることは可能だ。スポーツ選手としての道は閉ざされても、勉強の道―山田君の道―を歩き直すことはできるかもしれない。僕も佐藤君の明るい未来を願っているので、この可能性に対してイエス!と答えたい。答えたいのだが、今回は、もっとネガティブな未来を想像してみたい。
「やり直す」、言うのは簡単だが、実践するのは難しい。もともと、佐藤君は、運動のみ得意な子供だったのだから、勉強への苦手意識は、人一倍強いだろう。だから、佐藤君の脳裏には、「テストが難しすぎて白紙で提出するしかない」というような暗い未来予想図が、日夜よぎっていることだろう。それに、実際、佐藤君が苦手を克服して、大抵の資格試験に合格でき、高くはないが安定した収入を得られるようになるのは、容易ではないだろう。


以上のようなネガティブな想像を、もしも佐藤君がしていたのなら、彼のスポーツ生命が絶たれることなく、それなりに順調であったとしても、彼は、自分の将来に対して、若干弱気になるかもしれない。言い換えるなら、スポーツ推薦で入学した志望校において、彼にとって、逃げ場のない状況が成立してしまう、と言えるだろう。

こうして、未来に対して臆病になっている佐藤君にとって、「この高校を卒業すれば、あるいは、この団体に所属していれば、スポーツ選手として成功する確率は高い」という期待や思惑が、反動として強まるということもあるだろう。彼の親たちの心の中でも、こうした思いは強まるかもしれない。そうであれば、生徒や選手は、その高校や団体に是が非でも留まろうとするだろう。「溺れる者は藁をもつかむ」というやつだ。ただ、彼らは、まだ溺れてはいない。高確率で溺れるであろう世界を生きているだけだ。崩れ落ちることが確約された吊り橋を渡らなければならないのなら、誰だって、落ちないような工夫を事前にしておこうとするだろう。



随分な遠回りをしてしまったが、ここでやっと、本筋にもどれる。佐藤君にとって、そして、彼の親にとって、吊り橋から落ちないための工夫とは、部活の因習を受け入れることであり、そういった因習の正当化であるだろう。某高校のバレー部で行われていた体罰や暴力、某柔道組織における体罰や暴力、こうしたことが因習として存続してきたその根っこの部分には、以上のような物語が、展開されていたのではないか?
某高校の入試そのものを取り止める云々といったことが、一時期世間の話題になった。「学校全体がくさっているのだから、教師を全て辞めさせてしまえ」という過激な見解もあったように思う。僕が思うに、問題の根は、いくつかの過激な発言をした人たちが思う以上に、根深い。