暗さの理由

シリーズもののミステリー小説が読みたくなって、吉永南央の『萩を揺らす雨』と『その日まで』の2作品を古本屋にて購入。2作品は、「紅雲町珈琲屋こよみ」シリーズの第1巻と第2巻に該当する。ちなみに、まだ第3巻は出ていないようだ。
この作品の主人公は、70代の老婆であり、和食器と珈琲豆の店の経営者である。これまで僕の読んできたシリーズものの作品では、30代〜50代の働き盛りの男性が主人公のものが多かったので、高齢者の女性が主人公の作品は、初めてということになる。
読み始めて、割とすぐに気づいたことは、読んでいると何だか暗い気分になる、ということだった。ミステリーと言っても、この作品で扱われるのは殺人事件ではなく、いわゆる日常の謎の解明といったものである。だから、残酷な殺人描写に僕の心が傷つけられたというわけではない。ならば、どうして気分が沈みがちになるのだろうか?と不思議に思い、ちょっとした分析を行うことにした。

1、文章全体の印象
冷静で淡々とした印象を与える。決して暗いわけではない。また、人物描写や風景描写に回りくどさのようなものは見られない。出来の良いルポルタージュを読んでいるような気分になる。
2、主人公の性格
いくつかの辛い経験を積み重ねてきたためか、物事を諦観したような雰囲気を持つ。基本的に物静かで慎重といった印象。
3、その他の登場人物たち
明るい、意地悪、頑固、穏やか、自意識過剰・・・・・・etc、様々な性格の人物たちが登場するが、どの人物も「主人公との関わりが稀薄」であるように感じた。なぜだろうか?

作品を構成する要素のなかに、気分を暗くするようなものがあるようには思えない。でも、気分を盛り上げたり、明るくしたりする要素も見当たらない。
また、主人公が高齢であること、物静かな人物であること、かといって、常にどんな状況においても冷静でいられるようなタフな性格でもないということ(つまり、動揺したり気落ちしたりもするということ)、これらの事柄によって、「老い」が、ある種の強さではなく、弱さとして現れ出てしまうことになっているのかもしれない。
「老い」が、開き直った「強さ」(どうせ死ぬのだから何も怖くないというような強さ)や経験に裏打ちされた知恵へと結びつかないのだとしたら、残されるのは、死や別離との近しさくらいしかない。これは、「老い」をリアルに描いているとも言えるのであって、短所と言い切るのは短絡的であろう。
加えて、登場人物たちの間に会話が少ないのも本作品の特徴だと思う。より正確には、会話が少ないというより、無駄な会話が少ないのである。出来の良いルポを読んでいるような気分になるのは、これが原因かもしれない。
私たちの日常には、無駄な会話があふれている。接客業や営業に従事しているのでもない限り、一言も話さなくとも致命的な問題を引き起こすといったことはないだろう。無駄のない情報というのは、論文やルポにおいては美点であるが、人間関係においては、一方的に称賛できるようなものではない。ただ、人によって多様な日常があるのも事実であり、この作品で描かれているよりももっと淡々とした日常を過ごしている人も少なくはないだろう。そうであっても、この作品の醸し出す暗さの要因の一つは、無駄のない会話にあると言えそうだ。
以上のような特徴を踏まえると、なぜ気分が沈みがちになったのか、その理由がおぼろげながら見えてきたような気がする。
暗い気分になった理由は、作品の外にもあることに気づいた。僕にとって、推理小説やサスペンス小説は、エンターテインメントのための手段だ。だから、心の刺激を求めて読み始める。今回の作品は、その意味では、いわゆるエンタメ系には連ならないものだった。そのギャップが、この作品の「暗さ」を際立たせたのだろう。

最後に、この作品には、淡々とした日常が描かれていただけで、読者に暗さを感じさせる要素など微塵も含まれていなかったのかもしれない。少なくとも、作者にはそんな意図などなかったかもしれない。にもかかわらず、読者である僕は、その無味無臭の物体を強い刺激物であることを期待しつつ口に含んだために、本来は存在しないはずの味を感じてしまった。そういう可能性もある。