死刑を考えるための視点

櫻井悟史『死刑執行人の日本史』(青弓社ライブラリー)によれば、牢屋と監獄とは異質なものであるらしい。その違いは、


江戸時代の牢屋が、

1、未決拘禁所としての機能
2、有罪判決を受けた者を刑の執行まで拘置する場としての機能
3、永牢、過怠牢などの禁固刑を執行する機能
4、身体刑(入墨刑と一部の死刑)執行の場としての機能

を備える施設であるのに対し、

明治以降の監獄は、主に自由刑執行のための施設だったということ。僕にとって耳慣れない言葉だったので「自由刑」について調べてみると、「受刑者の身体を拘束することで自由を奪うものをいう」(ウィキペディアの「自由刑」についての説明から一部抜粋)のだそうだ。マニュアル人間に「自由にして良いよ」と言い放つことではなかった。

「とはいえ、明治初期は国家の体裁がいまだ整っていなかったことと、監獄の業務があまり重要視されていなかったことがあいまって、牢屋と監獄の区別はそれほど厳密になされていたわけではなかった」(p.72)そうである。江戸時代の牢屋も明治時代の監獄も、現代人にとっては遠い過去のものなので、両者の違いを認識している人自体、それほどいないのではないだろうか?

また、この本には絞首についての具体的な説明への言及もある。

「実際の死因は気管が潰れたことによる窒息死である。落下の衝撃によって意識は失うが、心臓の停止までに十分以上の時間を要するので、即死とはいえない」(p.99)。

「七人の死刑囚の平均絶命時間を計算してみたところ、十三分五十八秒だった」(p.99−100)という元刑務所長玉井策郎の言葉も紹介されており、なるほど、この計算が正しいのであれば、即死などとは言えない。

なお、旧刑法時代の死刑執行の流れを簡略化して紹介すると以下のようになる。


顔面蒼白⇒筋肉弛緩⇒糞尿の垂れ流し⇒死に至る

その後

⇒立会いの監獄医が死刑囚の死を確認⇒立ち会った官吏が書記が作った始末書に書名捺印⇒始末書を検事局に納める⇒死刑終了


この本の魅力の一つは、従来の死刑存置論者vs.死刑廃止論者という対立に、新しい視点を取り入れようと試みている点にある。それは、刑を執行する人、つまり刑務官という1人の人間の立場について、我々は考えるべきではないのか?という提案でもある。これまでの論争には、死刑囚と我々(無辜の国民)という二種類の人間しか登場しなかった。しかし、当然のことながら、刑が執行されるということは、それを行う人がいなければならない。そして、死刑制度が存続する限り、その人は、人を殺し続けなければならない。




僕としては、「だから死刑制度は廃止されるべきだ」と結論するには至っていない。この問題は、それほど簡単に答えの出せるものではない。この本の著者も、もちろん、安易に廃止を主張しているわけではなく、誰もが見落としている事実を指摘する以上のことは、敢えてしないように我慢しているように思えた。誠実な研究者である。そして、兎にも角にも、難しい問題である。