神様は誰の味方か?

 宗教談義を始めようというつもりはない。ただ、あの世というのが実在し、しかも、そこには神様なるものがいるのだと考えた場合、次のようなことが問題になると思う。それは、果たしてその神様という存在は、誰の神様なのか?ということだ。「誰の」という書き方は、分かり難いかもしれない。どの生物にとっての神様なのか?と言い換えた方が良いかも。
 一般に、神様と言えば、人間にとっての神様ということになっている。でも、たいていの宗教では、神様が、人間だけでなくその他もろもろをも創造しているのだから、神様が人間にとってだけの神様と考えるのは、奇妙だ。ミジンコにとっても、ハエにとっても、サルにとっても、神様は創造主に違いはないはずなので、仮に、神様が実在し、人間と同じように、意思というものを持っているのだとすれば、人間だけでなく、その他の生物のことも日々気に掛けていてくれているとしても不思議ではない。
 さて、神様が、人間だけでなくその他の生物をも視野に入れて、あの世から見守っているのだとしたら(監視しているとも言う)、加えて、天国や地獄というのも実在し、かつ、死後、どちらの世界に行かされるかを決める裁判(審判)が行われている場合、その裁判の判断基準というのは、どんなものなのだろうか?
 大抵の場合、神様の存在を信じている人は、神様を「人間にとっての神様」だと思っているので、例えば、どれだけの人に迷惑をかけたか(感謝されたか)、とか、どれだけの人を殺したか(救ったか)、とかいった事柄が、天国か地獄かを決める重要な判断材料だと信じていることだろう。でも、神様が、人間にとってだけの神様ではなく、その他の生物にとっても神様だとしたら、判断の基準となる項目に、ノミを何匹殺したか(救ったか)、とか、草木にどれだけ迷惑をかけたか(貢献したか)、とかいった事柄も加わっていると考えて差支えないように思う。
 この場合、神様から見れば、ノミの命と人間の命が、等価である可能性もあるわけで、そうだとすると、生前、人を十数人も殺した殺人鬼は、生涯を害虫駆除に捧げた人物よりも「善い人」ということになる可能性もある。「善い人」という表現は、適当ではないかもしれない。「善い生物」と書き換えるべきかもしれない。
 ただし、「生命を絶つ」という行為が、神様的に悪行に分類されるかどうかは分からない。上述した内容は、あくまで、神様が、人間的な価値観を持っている場合にのみ成り立つ話だ。