戦時下の日常

 それでは、世界(連合国側)が国連の成立や戦後世界の構築に躍起になっているとき、日本はどんな状況にあったのか。それを数回にわたって整理してみようと思う。ただし、あくまでザッとまとめるだけだ。とりわけ注目したいのは、当時の人々の日常生活だ。僕が、当時の日常を把握し、それによって、僕が、当時の雰囲気を少しでも想像できるようになれることを目論んでいる。あくまで全ては僕自身のため。


【背景】
 1920年代の日本では、いわゆる新中間層の生活が理想とされるようになっていたらしい。新中間層とは、大企業のサラリーマンや政府役人のような人々、社会に10〜20パーセント程度しかいない恵まれた人々のことを指す。当時の庶民にとっての理想的な生活とは、デパートで高級品を買い、私鉄沿線の文化住宅に住むというようなものだった(以上、p.125)。ちなみに、文化住宅とは、近畿地方で呼ばれているところのソレではなく、『となりのトトロ』に登場する「サツキとメイの家」がイメージに近いだろうか*1

【日常の空気】
 では、当時の人々の日常を部分的にではあるが俯瞰してみる。大いに参考にさせてもらったのが『岩波講座 アジア・太平洋戦争6 日常生活の中の総力戦』(倉沢愛子ほか編、岩波書店)という本だ。

 1920年代はじめ、東京月島の労働者の80%が日刊新聞を購読していた。1925年創刊の月刊誌『キング』は、1926年までに発行部数を100万部に伸ばし、『婦女界』『主婦之友』『婦人倶楽部』といった女性向け雑誌の発行部数も1920年代前半までにそれぞれ20万部になっていた。
 映画館は、第一次世界大戦前に約100館だったものが、1929年になると1273館に増え、観客動員数は1億5千万人を記録したらしい。1940年代になると、映画館の数が増えたのはもちろんだが、観客動員数は4億人を超えた。これは、一人当たり年間6本の映画を観たという計算になる。
 ラジオ放送が始まるのは1925年だが、当初のNHK加入世帯数は5500人。これが1929年には65万世帯になる。なお、僕が参考にしている上記の本では、1925年の数字が5500人というふうに、「人」でカウントされているのに対して、1929年では、世帯で表されている。この表現の違いがなにやら気にかかるが、加入者数が爆発的に増えたことに間違いはない。加入者数は、1941年には660万件、1944年には750万件、というように着実に増加していった。ちなみに、1930年代の日本の世帯数は、約1400万ということなので、都市と地方との差を無視すれば、日本の約半分の世帯が加入していたということになる。
 洋装化が進んだのは、1930年代のことらしい。1939年の東京には、美容院が約850軒あったとされ、1943年の東京には、洋装店が1282軒(そのうち女性が経営or所有しているのは572軒)あったということだ。東京と一口に言っても、東京全体が均一に近代化していたとは思えないが、店舗がどの地域に集中していたのかという細かなことは分からない。加えて、地方の様子は、なおのこと分からない。
 1930年代の有名な出来事を並べてみると、1931年にメジャーリーグの選手たちが来日し*2、1934年に再度来日している。1934年は、日本にプロ野球チームが結成された年でもある。リーグ戦は、1936年に開始。プロ野球休止が宣言されるのは1944年11月である。1932年は、五.一五事件のあった年だが、チャップリンが来日している。1933年には、大阪に地下鉄(梅田〜心斎橋間)が開通した。東京で開通した6年後の出来事ということになる(1927年浅草〜上野間開通)。

【温度差】
小学校や中学校で受けた社会科の授業では、昭和初期という時代は、基本的に暗く重いものと教わるのではないだろうか?既に前々回あたりで書いたように、1941年にいわゆる太平洋戦争が始まり、物資統制令の公布や言論出版集会などが制限される傾向が強くなる。にもかかわらず、プロ野球は1944年まで続き、東京では洋装店が営業されていた。しかし、教科書に出てくるのは(あるいは、教科書から連想できるのは)、もんぺ姿で竹やりを持つ婦人、裸足でランニングシャツ姿の坊主頭の少年くらいのものであり、プロ野球観戦する男性やウィンドウショッピングに興じる女性ではない。
 戦争の悲惨さを訴える漫画や映画では、当時の負の側面を浮き彫りにしようという熱意や誠実さによって、おそらく制作者たちの意図とは無関係に、かえって正の側面を見えなくしてしまったと言えるかもしれない。同じことが、小学校や中学校の教科書にも当てはまるだろう。
 戦争=陰鬱、全体主義=悪辣、というような印象を持つことは、間違いではない。少なくとも僕は、そういった意見を非難しない。でも、こうした一面的な理解では、どうして当時の人たちが時代の流れに身を任せたのかが理解できない。ナチスだって、少数の変わり者だけが支持したのではなく、大多数の国民が支持した。当時の日本政府だって、クーデターの結果政権を獲得したのではない。だとすれば、そこにはほとんどの人が共感できるような、心地よさやメリットがあったと見るのが道理ではないだろうか?当時、世界規模の戦争に突入しつつあった日本の首都では、近代的な文化が花開き、なにやら楽しげな雰囲気に満ちていた。だから、人々は、当時の時代の流れに身を任せた。そう考えることもできると思う。
 ただし、注意しなければならないのは、今回取り上げた事柄のほとんどは、東京や一部の都市に限られたものであって、地方の農村が、当時どのような状況に置かれていたのかということに関しては言及していない。だから、都市のにぎやかさは、地方を犠牲にすることで成り立っていたということも十分あり得るし、実際、二.二六事件は、東北地方の農民たちの苛酷な暮らしぶりを憂えた青年将校たちが引き起こしたと言う人もいる。でも、こういった説も当時の負の側面を強調する傾向の強い人の唱えたものであるかもしれず、妥当であるか否かを判断するのは難しい。また、教科書に書かれていることであっても、学術研究の進展によって、いつ覆されるかわからないのであって、絶対の真実というわけではない。今後とも半永久的に追究する必要がある。もちろん、僕以外の人の手によって。