お客様はオリンポスの神様です

 飲食業で際立っている企業のブラックさ加減には、「消費者の権利」というのがいくらか加担してしまっているのではないかと思っている。
 食品に有害物質が使われていないか、製品の生産において環境破壊を引き起こしていないか、というような極めて善良な目的意識によって続けられている消費者を守る活動だが、そういった商品を作っている人たちや販売している人たちについての配慮が、とても軽んじられているように思う。
 消費者にとっての心地よさだけを追求すれば、当然ながら、商品を作る人や販売する人の負担は増大する。消費者は、自分たちの権利を守り、より拡大するために、いわゆる生産者たちに向かって、よりきめ細かなサービスを提供し、常に笑顔を絶やさないように要求する。結果として、作り手や売り手は、肉体も精神も生活時間も削られてしまう。
 もちろん、経営者が、自分も背負うはずの負担を部下や従業員に放り投げていることが、問題の根幹なのだろうけれど、一日が約24時間である事実は、簡単には変えられないのだから、要求されるサービスや商品の質や量が増えれば、サービスや商品を提供する側は、自分たちの時間を削るほかなく、しかし、いずれは限界がやってくる。遊ぶ時間を削り、睡眠時間を削り、仕事のための勉強時間を削り・・・・・・、そうして自ずと生命も削られる。
 僕もまだ明確な基準を提示できないけれど、おそらく、サービスや商品の品質や量には、超えてはいけない一線があると思う。それは、他人の権利やプライベートな時間を犠牲にせずにはおかないような、そんなラインのことだ。それを超えて消費者の権利を主張するようになると、消費者の満足度は向上するが、作り手や売り手の生命は危機にさらされる。
 このラインは、技術の進歩や管理手法の進歩によって変化するだろうから、決して普遍的なものではない。だけど、そういった進歩が生じるまでの間は、誰かが負担に耐え続けなければならない。それに、より少しの労力でよりたくさんのサービスを提供できるようになったとしても、その時代のその世界の消費者たちの要求も、よりいっそう大きく高いものになっているかもしれず、そうなるとイタチゴッコだ。
 でも実は、この世の中に、純粋な消費者、つまり、消費しかしない人というのはほとんどいない。特に日本には。大抵の消費者は、作り手や売り手でもある。専業主夫・主婦だって、家事というサービスを提供している。
 だから、消費者の権利が拡大し続ければ、最終的に、作り手や売り手でもある自分たちの首を自分たちで絞めることにもなる。笑顔の接客を要求すれば、今度は自分も笑顔の接客をしなければならなくなるし、きめ細かなサービスを要求すれば、今度は自分がそのようなサービスを提供するために、身を粉にして働かなければならなくなる。
 良く言えば、社会全体の商品やサービスの品質向上ということになるのかもしれないが、純粋に得をしている人がほとんどいない。とても奇妙な光景だ。