岩男となりて

 渦中の国歌だが、国歌がどんな経緯で成立したのかとか、元になった和歌がどんなものなのかとか、主に人文系の学問が対象としてそうな、面倒くさそうな事柄は、あまり論点にならないようだ。
 特定の政治家や政党に対する個人的な好き嫌いの感情、教育や教師や公務員への日頃の鬱憤、これに、公務員とはどうあるべきかみたいなややこしい話も重なってくるから、事態は混乱の極みとなる。みんなのストレス発散をすべて請け負っているかのようだ。でも、とりあえず問題の要となっているのは、歌詞の解釈とか公務員云々の話ではなく、法解釈なのだろう。だから、上沼相談員や仁鶴師匠にまーるくしてもらえば解消する程度の問題だと思うのだが、どうやら何が争点なのかも混乱してしまっているようだ。
 争点が混乱しているということは、論争に参加しているほとんどの人にとって、問題解決なんてどうでもいいということなのかもしれない。本当に解決しなければならないと思っているなら、あるいは、死活問題だと思っているなら、争点を明確にした上で迅速な解決を図ろうとするだろう。
 某国歌の元になった和歌は、実は葬礼のための歌だったのではないか?という説(挽歌論)がある。個人的に、この説には難点があるとは思うが、軍隊の行進曲のような国歌が多いなかで、やけに悲しげな曲調である点で、他と比べて確かに際立っている。また、祝いの歌(賀歌)だとする説も当然ある。それほどに、解釈の分かれる和歌が元になっている。「曖昧な日本の私」たちにピッタリな歌かもしれない。
 万葉集やら古今和歌集やらまでさかのぼって調べる必要がありそうなので、歌う歌わないを論じるほどに熱心な人は、勅撰和歌集の編纂された意図や編纂者たちの置かれていた当時の状況について調べてみると、苦しくもあり面白くもあるかもしれない。紀貫之のような曲者の意図を看破しなければならないような破目に陥ることが多々あると思うので、相当苦労するんじゃないだろうか?
 どんな立場を支持するにしてもしないにしても、調査や検証や議論の普及が、決定的に足りてない領域だとは思う。
・・・・・・ところで、「仰げば尊し」について、こんなこと*1が判明していたらしいけど、特定の立場の人たちは、この歌を歌わなくなるのだろうか?






【本】
『ガッツポン』vol.3
純情パイン〈完全版〉』(尾玉みなえ、講談社)
『つっこみ力』(パオロ・マッツァリーノちくま新書)