武道バカ一直線part.4

 「家元」「元祖」「固有」「起源」、人には、自分こそ始祖であると表明したい欲望でもあるのかもしれない。でも、少なくとも、生物の世界や文化の領域では、無から有は生まれないことになっているのだから、どんな起源にもさらなる起源があることになる。人類の起源は、アフリカ辺りなのかもしれないが、究極的には、宇宙誕生が、あらゆる物事の起源ということになるのだろうか。兎にも角にも、起源探求の非有益な旅は果てしなく続く。
 武道必修化の理由の中で、「我が国固有」という言葉は重要な役割を負っている。ボクシング、ムエタイ、サンボ、中国拳法、空手、テニス・・・・・・etc、世界には、未だ発掘されていないものを含めれば、無数の格闘技術がある。中には誰からも忘れられてしまったものさえあるだろう。無数の選択肢の中で、今回の必修化では、柔道、剣道、相撲、弓道なぎなた、以上の5種が、生徒のための選択肢として挙げられている。ただし、弓道なぎなたは、地域限定らしい。これら5種が選ばれたのは、これらの武道が「我が国固有」だからである。
 特定の主義主張を支持する人は、「我が国固有」という言葉に拒否反応を示すかもしれない。でも、多くの人が、国境を容易に超えられるようになった現代において、自分の生まれ育った地域特有の技術や考え方は、かえって役立つ機会が増えたはずだ。これらは、観光客にとっての観光地(現地)のお土産と同様、異なる地域の人には、魅力的に見えるだろうからである。だから、地域限定の技術や考え方を学ぶのは、実利の上でも良いことだと思う。海外の人と付き合う(商談なども含む)際、何の特徴も無い人よりも、珍奇な芸を披露できる人の方が、チャンスを多くつかめるかもしれない。
 とはいえ、武道が選ばれた理由が明確ではないことに変わりはない。日本的な意味で礼儀正しい大人に育てたいなら、茶道や華道でも十分機能するだろうし、我が国固有であるという点でも条件を満たしている。保健体育の時間を使って行うのだから茶道や華道は選択肢に入らない、という反論も考えられるが、それなら、技術家庭の時間を増やせば問題解決だ。教育業界にもその業界なりの苦悩や都合があるのだと思うけれど、どうしても武道でなければならない理由というのは、なさそうだ。
 珍奇な芸が身を助けると仮定するにしても、この仮説を支持するためには、満たさなければならない条件がある。それは、教える側に、十分な準備が整っていることだ。つまり、生徒が、習った技能を他人に披露しても恥ずかしくないレベルになる程度には、柔道なり剣道なりを修得させられるだけの準備が、整っているということだ。
 例えば、成立までの歴史や成立に尽力した人たちの名前、型や技の名前(出来ることなら由来も)、そして、実際に、実践に役立つレベルで使いこなせていること、僕が思い浮かべられるのは、このくらいだが、中途半端な知識や技術を披露すれば、高確率でマイナスの印象を相手に与えてしまうだろう。特に、柔道も剣道も相撲も、今や色々な国籍の人が参加している。外国人の前で「アチョーッ」みたいに奇声をあげつつそれっぽいポーズをとれば、笑ってもらえた時代は終わってしまった。流暢な日本語でダメだしされる可能性も低くない。
 そこで問題になるのが、やはり、武道の授業に割り振られる時間量の少なさだ。数学にしても、社会にしても、国語にしても、年間13時間(3年間で39時間)ぽっちで身につくことなんて高がしれている。それなのに、武道に関しては、有益なものを体得させられると考えるのはなぜなのだろうか?

 今回の話をまとめると次のようになる。
1、「我が国固有」の考え方や技術には、学ぶ価値がある(ゼロではない)。
2、ただし、年間39時間で学べる程度のものには、価値がない可能性が高い。

 最後に、柔道以外の選択肢に対して、細かい突っ込みをしておきたい。剣道が、どれだけ危険なものなのかは知らないが、柔道と違って、防具などにお金がかかる。年間39時間しか使わないようなものを生徒一人一人に買わせるとは思えないけれど、いくら少子化著しい昨今でも、生徒の人数分を学校側が揃えるとなると、かなりの出費だ。それに、生徒の中には、別の武道を選択する者もいるだろうから、その場合、剣道と他の武道とを並列して行うだけのスペースも必要になるのではないか?相撲は、柔道と同じくらい(あるいはそれ以上に)危険だろう。柔道の場合、「股割り」は必須ではない(是非割るようにと迫られることもある)。学校の授業で「股割り」させるようなマッドな教員はいないだろうけど、柔道以上の柔軟性が要求されるのは間違いないだろう。
 心の教育をしたいのであれば、「十分な準備も無しに事に臨めば大怪我をする」という常識を、教える側が身をもって示す必要があるだろう。さもないと、生徒たちは、準備の大切さを知らない大人になってしまったり、自分では守れもしない条件を他人に強いるような大人になってしまったりするかもしれない。ブラック企業の台頭や政治の低迷を次の時代に持ち込まないためにも、教える側(現場の教員たちより上層の人たち)の教育が急務だ。この場合、誰が彼らの教師をやれば良いのだろうか?とりあえず、硬い畳の上に投げつけてみれば良いのだろうか?