あんときの気持ち

 春何番なのかは知らないけれど、良いアゴの王様が来日して、やがて去っていった。この人の来日以前からGNHという言葉はささやかれていた。国民にどれだけ財が行き渡っているかを表現できないGDPには、確かに問題があるので、これを利用する際には、利用者がTPOに注意しなければならないけれど、だからといって、GNHを使いましょう!という考え方は極端な気がする。GDPが増大⇒国民みんなハッピーという詭弁が、大手を振って歩かないように、専門家やそうでない人たちが用心していれば良いだけの話だ。
 サハラ砂漠のど真ん中に素っ裸で放り出されて、その数日後にオアシスを発見できたとしたらその人は幸福だろうし、それなりに努力して国立大学に進学したけれど、最終的に年収150万円の仕事にしか就けなかった人がいたとしたら、その人は、自分の人生を呪っているかもしれない。それでも見方によっては、砂漠をさまよった人よりも年収150万円の人の方が幸福と言えないこともない。
 幸福度指数の問題点は、それが主観に左右されるということ以上に、自分よりも不幸な人たちの存在を必須としてしまうこと、そして、そもそもの自分の抱えている問題や不幸が、問題視できにくくなるということだろう。子供の好き嫌いを無くすために、紛争地帯の飢餓難民たちをダシに使い、労働環境の改善要求を回避するために、ホームレスをダシに使う。そんなふうに、目の前の解決しなければならない不幸を、さらなる不幸を比較対象にすることによって先送り(無視)しようとする姿勢、そんな姿勢を正当化することにつながってしまうように思う。
 目の前にろくでもない選択肢しか提示されない人であれば、第3者から見て、その人がどんなに不幸な境遇に置かれていたとしても幸福を感じるかもしれない。ロシアンルーレットに参加するか、それともビルの5階から飛び降りるか、それとも片腕を切り落とすか、そんな3択しか存在しない状況に直面した人ならば、片腕を切り落とすという選択肢を選べた自分を、ラッキーだと思うかもしれない。社会を良くするために重要なのは、その人が、そもそもそんなろくでもない3択を迫られることになった理由や背景なのかもしれないが、当人の幸福感が重要である以上、それ以上の踏み込んだ考察は行われないかもしれない。
 GNHは、それを利用する人たちにとって都合の悪い問題を隠すのに有効だ。「世の中にはあなたより不幸な人たちがいる」という事実をちらつかせつつアンケート調査を行えば、たいていの人は、自分は幸福だと思い込もうとするだろう。こうして、比較のダシにされた不幸は、現状維持されることになり、そのダシとの比較によって「不幸ではないもの」ということにされた不幸もやはり現状維持されることになる。目の前の小さな問題からコツコツと解決していこうとする考え方とは対照的だ。
 それともうひとつの問題点を挙げるとすれば、それは、なんだかんだ言っても財や富は大切!という当たり前のことが、幸福という当たり障りのない言葉によって覆い隠されてしまいかねないということだと思う。元気があれば何でも出来るのだとしても、元気な体を作るためには、一定以上のお金が必要なのだ。
 

【本】
『アクシデントと事故文明』(ポール・ヴィリリオ著、小林正巳訳、青土社)
宮沢賢治の地的世界』(加藤碵一著、愛智出版)