馬上の人

 携帯電話の普及以来、携帯電話の画面を見ながら歩く人たちの存在が問題になってきた。最近は、スマートフォンの普及によって、いわゆる「ながら歩き」が、再び話題にされることが増えたようだ。
 「ながら歩き」の元祖は、二宮金次郎だと勝手に思っている。本を読みながら歩いたであろう彼も、もしかすると、村人たちから白い目で見られていたかもしれない。他人の田んぼの畦(あぜ)を踏み荒らして怒られたりもしたのではないだろうか。彼の読んできた本には、「読みながら歩くと危ないよ」とは書かれていなかったに違いない。
 コミュニケーションツールが発達し、その優れたツールを操作することによって、かえって他人の立ち振る舞いを認識できなくなるというのは、皮肉なことだ。道具の発達に伴って、人間も、電磁波や音波を発することで、視覚や聴覚を使わなくとも周囲の様子を把握できるようになっていたならば、こんな問題は生じなかっただろう。あるいは、移動手段として馬が普及していて、誰もが馬に乗ったまま移動していたのなら、乗っている人間が眠ってしまっていても、馬が安全に運んでくれたことだろうから、こんなことは問題にならなかっただろう。
 会社から離れても、スマートフォンなどで仕事をしなければならない人が少なくない昨今、人によっては「ながら歩き」が必須になっているのかもしれない。もしも、社会全体で過労の推進を許容するつもりならば、「ながら歩き」を安易に禁止するわけにもいかないだろう。そろそろ、馬上で携帯ツールを操作する時代なのかもしれない。自動車の利便性を十分には発揮できない都市でこそ、馬は便利だと思う。


【本】
『世界の電波男喪男文学史』(本田透著、三才ブックス)
『日本文化論のインチキ』(小谷野敦著、幻冬舎新書)