ポンコツ運命共同体

 長引く不景気のせいで、みんな気が立っているのだろう。エネルギー政策にしろ、経済政策にしろ、イエスかノーか、右か左かをはっきり断言しなければならないかのような空気が充満している。
 新しいエネルギー技術の開発は、着々と進んでいるようだ*1。日本の未来は明るい。具体的には、2ルクスくらいの明るさだ*2原発から脱出するのか、継続するのか、はたまた反発するのか、どれが最も適切な姿勢なのかは判らないが、今の生活水準が継続することを願っている。昭和30年代や江戸時代の暮らしにあこがれている人もいるらしいが、その時代のダークサイドがどんなものだったのかを是非とも調べて知っておいて欲しい。
 どんな主義主張を掲げるのが正しいのかは判らないけれど、今が大きな変化の真っ只中であるということなら判る。これまでは常識だったものが、だんだんと崩れ、新しい常識が台頭しつつある。こんな時、一番苦労するのは、凡庸な人や弱い人だろう。どんなに困難な時代がやってきても、才能に恵まれた人や恵まれた立場にいる人であれば、つまり、いわゆる強者であれば、心配する必要はない。才能や富やコネクションという財産が、様々な困難から身を守ってくれるだろうし、困難を克服するだけの力を持ってもいるはずだからである。でも、凡庸な人や弱い人は、不幸なことに、そういった身を守るための何かを持っていない。いや、凡庸な人であれば、少しは才能や富やコネを持っているかもしれないが、襲い来る変化の波の大きさによっては、紙くずのように吹き飛ばされる程度のものだ。
 どんな政策が実施されるかに関わらず、変化は生じる。しかも、その変化は、数日で治まるようなものではない。誰でも等しく同じだけの期間、変化の荒波にもまれることになる。強者というのは、例えるなら、飛行機にも船にも潜水艦にも変形する最新鋭かつ万能の乗り物だ。それに対して、凡庸な人や弱い人は、水陸空のどれか一つにしか対応できない乗り物だ。しかも、対応しているといっても、中途半端にしか対応できていない。さらに残酷なことに、機体のパーツが、どこかしら錆びている。
 だから、どんな政策にイエスやノーを示したとしても、変化の波には耐えなければならないし、自分が凡庸な人であったり、弱い人であったりした場合には、危険な目に合う可能性が高い。特に、余りに極端であったり、余りに性急であったりするような政策が実施されれば、生じる波の大きさは、想像を絶するものとなるだろう。
 どんな政策を選んでも変化には耐えなければならない。そうだとすれば、着目すべきは、政策そのものというより(もちろん、政策そのものは重要だけど)、政策実施後に、どんなメンテナンスを施すかということだろう。言い換えるなら、変化に伴って発生する波に対して、どれだけ具体的な対処法を示しているかということだ。
 僕が情報に暗いだけかもしれないけれど、最も良心的だと思われている(?)脱原発推進派でも、およそ何年後くらいにどれくらいの規模でエネルギー技術の移行を行うつもりなのか、ということを示せていない。他の立場にも同様のことが言える。何だか、三鷹山にも登ったことのない人が、チョモランマ登頂を宣言しているかのように見える。準備不足の登山が危険なことは、たくさんの山ガールたちが教えてくれている。
 現時点で、日本にはどのような技術があるのか、変化に伴うリスクに対してどれだけの準備があるのか、仮に、エネルギーの移行をするとしてどれくらいの期間が必要なのか、それをどれだけの規模で行うつもりなのか、その際、どんなリスクが生じるのか、これらのことがぼんやりとでも判らない限り、どの立場が適切なのかを判断するのは無理だと思う。

【本】
『日本の殺人』(河合幹雄著、ちくま新書)
『退屈論』(小谷野敦著、河出文庫)
『アキレスとカメ パラドックスの考察』(吉永良正著、講談社)
『鉱物の不思議がわかる本』(松原聰監修、成美堂出版)