社会的ゲーム

 ソーシャルゲームというのがどんなものなのか、グリーとモバゲーは違うものなのかどうか、課金システムとソーシャルゲームとは切っても切れない間柄なのか否か、ここまでの書きっぷりからも明らかなように、僕は、ソーシャルゲーム周辺のこともソーシャルゲームそれ自体のことも、全くわかっていない。わかってなんていないのだけど、そういったゲームのテレビコマーシャルを見るたびに感じる違和感の正体が、少しだけわかったような気がしたので、とにもかくにも書いてみようと思う。
 ソーシャルゲームが流行っているらしい。嘘か本当かよくわからないが。コミュニケーションを楽しみたい人が増えたとか、ゲームの内容そのものが面白いとか、いろいろな話を耳にする。これも本当のところはわからない。
 人付き合いというのは、基本的に疲れるものだと思う。僕が実行できているかどうかは措いておくとしても、相手に気を使ったり、気を使われていることに対して気を使ったり、それに対してさらに気を使ったり、自分の無神経さに婉曲的に気づかされてへこたれたり、相手の配慮の足りなさを当人に婉曲的に気づかせてしまって自己嫌悪におちいったり、・・・・・etc。もちろん、話がはずめば楽しいだろうし、疲れが癒されたりもするだろう。それに、沈黙が支配していたとしても、馬の合う人と一緒にいるだけで、気分が満ち足りるということもあるだろう。
 コミュニケーションの結果がネガティブなものであれ、ポジティブなものであれ、つまり、コミュニケーションの結果、疲れるにしても、疲れが癒えるにしても、カロリーを消費することには変わりないし、気分が変動することにも変わりはない。
 頻繁にコミュニケーションを繰り返せば、それだけ体や心を使うのだから、よほど人付き合いの好きな人でもない限り、ソーシャルゲームは、疲労が蓄積してしまいそうだ。長く続く暗い時代のさなかであれば、蓄積した疲労に利息すらつくだろう。それなのに、流行しているということは、人類の大半は、何よりも飛び込み営業を愛するような人たちばかりなのか、あるいは、率先して営業職を志望・希望するような人種ばかりなのか、それとも、他人に全く関心のない人ばかりなのか、これらのうちのどれかのような気がする。
 他人をモノ扱いすれば、配慮の必要はないし、気配り合戦をしなくてすむ。仕事でくたびれた心を、さらなる危険にさらす可能性も低くなる。仮に、ソーシャルゲームにハマった人たちが、コミュニケーションなんて好きではない人たちであった場合、彼らが金を費やしてまでゲームに没頭する理由は何だろうか?管見では、彼らにとって、ゲームは単なる暇潰しなのだと思う。手軽な(あくまで表面上は手軽な)暇潰しの手段の一つであり、しかも、他の暇潰しの手段と異なり、携帯できる暇潰しだ。
 ゲーム=暇潰しと理解している人には、これまでのゲームもこれからのゲームも同類にしか見えないかもしれないが、家庭用ゲーム機などでプレイされてきたゲーム(いわゆるコンシューマーゲーム)は、プレイしている当人にとっては、純粋な暇潰しではなかったのだと思う。少なからず本気でプレイしていたのだと思う。つまり、感情移入の度合いが、単なる暇潰しとは思えない程強いものだったのだと思う。わずかではあるが、ゲームの内容が、人生に影響することさえあるほどに。
 それに対して、昨今の課金ゲームとプレイヤーとの関係は、一昔前のゲームウォッチとサラリーマンとの関係のように、ドライなものなのだと思う。プレイヤーは、情熱的な物語の主人公などではなくて、通勤電車に揺られている、どこまでもひたすら現実の個人。その現実の彼が、空いた時間を潰すためにプレイする。それが、いわゆるソーシャルゲームなのではないか?そうだとすれば、なるほど、「ソーシャルゲーム」とは上手い命名だ。これは、ソシアル(社交)という意味なのではなく、ただひたすらに現実社会とつながっているという意味の「ソーシャル」なのかもしれない。
 テレビコマーシャルを見て、僕の感じたものの正体は、まだ完全には解明できていない。でも、宣伝されているゲームは、僕の知っているゲームとは全く異質のものだということは、何となくわかったような気がする。この異質さを捉えきれないでいる自分に対する不安のようなものが、ひょっとすると、違和感の正体なのかもしれない。
 以上のような書き方をすると、ソーシャルゲームの登場が、何か時代を変革するような壮大な出来事のように思えてしまうかもしれないが、変革されるのは、料金システム(お金の流れ方)と諸企業の市場占有率くらいのものだろう。それに、ゲームも、ドラクエやFFによって培われてきたゲームが、それ以前のトランプやボードゲームのような純然たる娯楽としてのゲームに戻っただけ、という考え方もできなくはない。