あの代、この代、我の代

 ”某国の国歌は、歌詞の解釈の仕方が何通りかあるような、あいまいな内容の歌である。だから、特定の価値観や信条を持たない人にとっては、あの歌の中に特定の思想や価値観を見出すのは難しい。しかし、確約された解釈がないということは、見出そうと思えば、どんな思想でも価値観でもその中に見出せてしまうかもしれないということでもあるから、今回のような国歌に関する騒動が生じた場合、そもそも他人は、あの歌の何が気に食わないのか?、あるいは、あの歌のどこらへんが好きなのか?という点で、ある程度の共通了解が成立しにくいのかもしれない。この歌の玉虫色なところが、僕としては案外気に入っているのだが、なんにしても厄介な歌ではある。諸外国に多く見られるような、軍歌や進軍マーチをベースにした国家だったなら、反対する側も支持する側も、自分が何に反対しているのか、何を支持しているのかが明確でわかり易かっただろうに。
 もちろん、今回話題になっているケースの場合、重要なのは、歌そのものではなく、課された行為や行為を課すという行為自体が、それぞれ違憲か合憲かということだと思うので、僕の記述は、直接関係あるものにはなっていない。
 この前見ていたアメリカのテレビドラマで、登場人物が””(日本の「」に該当する?)を示すジェスチャーをしているのを見た。Air Quotesという名前で呼ばれるジェスチャーなのだそうだ。ジョン・マケイン氏は、このジェスチャーを多用することで有名らしい。どんなジャスチャーなのかを言葉で説明するのは大変だが、



1、両方の手でピースする。※だが、アヘ顔はしない。
2、両手の中指と人差し指とを同時に曲げたり伸ばしたりする。



←つまり、こんな感じ。



おそらく、言われてみれば誰でも見たことのある仕草だと思う。自分の発言時にこのジェスチャーをすると、その発言を””でくくることができる。””でくくられた言葉は、くくられていない場合よりも、いくらかシニカルなニュアンスを付加されるらしい。平和を”平和”とすることで、発言者が、平和というものに対してシニカルな姿勢を示していることが、会話の相手や発言の相手に伝わるという寸法だ。
 それで、思いついたのだが、このジェスチャーを繰り返しながら歌えば、国歌を歌うのではなく、「国歌」を「歌う」ことになり、おまけとして、ちょっとしたシニカルな雰囲気も盛り込める。特に、嫌悪の対象になり易いであろう「○が代」(この「」にシニカルな意図はありません。念のため。)の「○」の部分を歌う際、このジェスチャーをやれば、「○」にシニカルなニュアンスを盛り込むことができるので、自分が国歌あるいは国家に心酔しているのではないということをアピールすることができる。
 ただし、起立を「起立」とするためにはどうすれば良いのか、僕には分からない。まだまだ課題は少なくない。ただし、僕にとっての”課題”ではないけれど・・・・・・。”


【本】
『ファンタジーと言葉』(アーシュラ・K.ル=グウィン著、青木由紀子訳、岩波書店)
『近代人の疎外』(F.パッペンハイム著、粟田賢三訳、岩波新書)