窓のない部屋

中学生の頃だったのか、高校生の頃だったのか、忘れてしまったけれど、「一つの外国語を身につけるということは、窓が一つしかない部屋にもう一つ窓を付け加えるようなものだ」という意味のエッセイだったか、問題集の例文のひとつだったかを読んだのを覚えている。こんなにも記憶が曖昧な状態を指して「覚えている」などと言って良いのかどうかは分からないが・・・。
思春期の頃の僕は、とても素直だったので、その文章の主張を正しいものとして鵜呑みにしていた。
「母国語以外の言語をも習得することは、物事に対する複数の視点を持つのに等しい」という見解も、けっこう耳にするので、表現は違うものの同じような内容の主張をしている文章というのは、世の中に広く出回っているのかもしれない。
先ほどの理屈を当てはめるならば、日本語しか話せない人は、窓が一つしかない部屋に喩えられることになり、バイリンガルは、窓が二つの部屋、トリリンガルは窓三つの部屋・・・etcということになるわけだけど、大人の階段を昇るとともに、ねじれた心の持ち主になったいった僕は、ここで一つの疑問を持つに至った。
それは、修得(習得)した言語の数と物事に対する視点(窓)の数が比例するという見解には、窓の大きさという大事な要素が欠けているということだ。窓が一つしかない部屋だとしても、窓がタテ×ヨコ:45cm×45cmの場合と180cm×90cmの場合とでは、外の景色の見え方は、大きく違う。また、窓が二つある部屋の場合でも、その二つの窓が、どちらも20cm×30cmというトイレについているような小さな窓だったならば、二つ窓があったとしても、そこから見える外の景色は、とても限定されたもののはずだ。
窓の数≒視点の数と見なすならば、窓の大きさは、視野の大きさにでも喩えられるだろうか。窓がどんなに小さくとも、習得言語の数が増えれば、窓の総面積は、確実に増える。だけど、母国語の窓の大きさを拡大するのに必要な手間と外国語という窓の大きさを拡大するのに必要な手間とを比較するならば、おそらく前者の手間の方がはるかに少ないだろう。
加えて、窓の大きさだけでなく、窓のついている位置という問題もある。窓が三つも四つもついている部屋だとしても、それらの窓が全て同じ壁についていたならば、その部屋から見える景色は、窓が一つの場合と比べてそれほど大きく変わるとは思えない。ニヶ国語以上を話せるのに、自分の価値観に固執したり、自分の意見を会議などでゴリ押しするという人がいたとしたら、その人は、こんな部屋に喩えることができるのだろうか?
言語の習得数と物事への視点の数とが比例するという見解は、経歴も実力も立派であるような人(例えば、外国語学者とか翻訳家とか通訳に従事している人など)が口にすることの多いものではあるので、僕の疑問のようなことは、実際には考慮する必要などないのだろう。習得した言語の数が増えると、他者の価値観や主張に対していっそう寛容になることができ、物事への考え方もより柔軟になり、事象への先見の明すら身につけられるようになる、というのが、二ヶ国語以上を習得した人たちの実感なのだろう。僕には未知の領域だ。



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