沈黙は希ナリ

僕は、どうしてもアナログな人間なので、これまで、ネット上で「つぶやく」ということを井戸端会議の延長として捉えていた。でも、参加者の顔ぶれが一定していて、ある程度閉鎖的である井戸端会議と比べると、「つぶやく」の場合、言語の障壁に突き当たらない限り、閉鎖の閉の字すら無いほどに開放的だし、参加者の顔ぶれは、むしろ一定ではあり得ないとすら言える。
適切な比喩ではないかもしれないが、つぶやいている当人は、井戸端に立っているのではなく、その人を除いた世界中の人たちが観客であるような、スタジアムの真ん中、そこの特設ステージに立って、しかも高性能のマイクに向かってつぶやいているというようなものなのかもしれない。
誰もが発信者になれる時代というのは、こういうことだったのかと一人納得してしまった(大いなる勘違いかも)。
スタジアム中央で活躍する演じ手の命運は、大抵の場合、観客に委ねられているので、誰もが発信者になれる時代というのが良いとは思えない。僕としては、観客の心無い批評やブーイングに耐えるなんてことは、是非とも遠慮したい。「つぶやき」が発端で、支持率が下がったり、内定取り消しなんてことになった日には、悔やんでも悔やみきれない。
ブログだって、上述のようなスタジアムになる可能性があるわけだけど、幸か不幸か、僕のブログは、井戸端の形態を維持している。


【本】
『漢字―生い立ちとその背景―』(白川静著、岩波新書)
『漢字百話』(白川静著、中公新書)
『新 私の歳月』(池波正太郎著、講談社文庫)
『長い廊下がある家』(有栖川有栖著、光文社)