権利∧義務

日本国憲法の第27条1項「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」
これは、憲法の条文のなかでもけっこう有名なものだろう。
以前から僕は、この文章のある点に違和感を覚えてきた。それは、「権利を有し、義務を負ふ」という部分だ。
法律に関してまったくの素人なので、もしかするとトンデモなことを言っているのかもしれないが、「権利」を別の表現に換えるならば、「〜しても良い」ということになると思う。同じく、「義務」を言い換えれば「〜しなければならない」ということになるだろう。だから、先ほどの「権利を有し、義務を負ふ」は、「〜しても良いし、〜しなければならない」というふうに言い換えることができるだろう。
例えば、ある小学生が、遠足の前日、教師に「遠足におやつは持ってきて良いし、持って来なければならない」と言われたら、大抵の場合、喜ぶ前にちょっと戸惑うのではないだろうか。わざわざおやつ持参を強制するのならば、その前に「持ってきて良いよ」なんて言う必要はないからだ。つまり、ある行為が権利であり、かつ義務でもあるという文章は、ある行為が義務であるという文章とほとんど変わらないことになってしまう。
「おやつを持ってきても良い」とだけ言われた場合、生徒は、持ってくるか持ってこないかを選ぶことができる。でも、その直後に「持ってこなければならない」と言われた場合、生徒に選択の余地はなくなる。このように、せっかく「〜しても良い」と言っておきながら、返す刀で「〜しなければならない」と言い放っている部分を、僕は奇妙だと思ってきた。「なんだよ。結局持ってこなきゃいけないんなら、最初からそう言えよ。クソ教師!」。反抗的な生徒ならば、こんなことを言うかもしれない。
この反抗的な生徒に倣うなら、「結局、働かなければならないんなら、変な言い回しすンな。クソ条文」ということになるだろうか。僕は、専門家のなかにも、この条文の記述の奇妙さを指摘している人がいるかもしれないと思い、いくつかの憲法解釈本にあたってみたが、権利と義務とを並列することの論理的な無意味さを指摘している人は、見当たらなかった。僕の探し方が不徹底なだけかもしれないし、この条文のままでも世の中は回ってきたのだから、問題無いということなのかもしれない。それに、実際のところ、労働の権利という側面は、ほとんどの人にとって無意味なものであり続けているのだから、むしろ、この条文は、現状をちゃんと表現できていると言えなくもない。

【本】
『からくり民主主義』(高橋秀美著、草思社)
フランス革命の肖像』(佐藤賢一著、集英社新書ヴィジュアル版):著者が「ローマでは中田英寿のチーム・メイトでもあったトッティなど、その取り澄ました表情がナポレオンそっくりだった」(同書、p.148)と評しているように、若いころのナポレポン(肖像)は、非の打ち所のない精悍な切れ者に見える。今までも、ナポ公の容姿はかなり良いと思ってはいたけど、現代の有名人の比喩によって、その格好良さを感覚的に理解できるようになった。
【DVD】
「アート・オブ・ウォー2」(監督:ジョセフ・ラスナック、主演:ウェズリー・スナイプスほか)