「頭」骨の夢

 文系の人なら耳にしたであろう言葉「ポストモダニズム」。安土桃山時代とかササン朝とかみたいに、特定の時代を指すインデックスのようにも見え、社会主義とか道具主義とかのように何らかの思想のようにも見え、何だか良く分からない言葉だというくらいにしか思っていなかった。
 だけど、ゼミのテキストにこの言葉が使われていたので、いくらか予習していかなければならなくなった。社会学者の新書を読んだり、社会学辞典を見たり、それなりに適当に調べたのだけど、オリジナル無きコピー、大きな物語の終わり、モダニズム批判……等々、色々なキーワードを目にするたびに、混乱は増した。
 ゼミ当日、やっぱりこの言葉の定義や意義について話題になった。以外にも、定義に関してはすぐに解決した。学部生の使っている電子辞書に、ちゃんと載っていたのだ。それを、素人頭で、端的に言い表すのなら、「主観のみが存在する」あるいは「客観性は存在しない」ということになるだろうか。詳しく知りたい人は、信頼できるソースを参照して欲しい。
 仮に、僕の適当な定義が正しいとして、加えて、ポストモダニストを自称する人がいたとしたら、彼は、「主観のみが存在する」という主張をするのだろう。これは奇妙なことだと思う。人が、意見を主張するのは、自分の意見が、自分以外にも了解できるものだと信じるからだろう。そして、複数の人によって肯定される事柄は、科学の分野に限れば、「客観性がある」ということになるのではないだろうか。
 つまり、「主観のみが存在する」と主張する行為は、「主観のみが存在するという私の考えは、客観的である」と言っているのと同じではないだろうか。嘘つきのクレタ人が「私は正直者です」と言うのに似ている。
 しかも、「主観のみが存在する」という意見に賛成するかどうかに関係なく、ほとんどの人は、この意見を理解できているだろう。そうであれば、ほとんどの人に理解できる「主観」というのは、一体全体何なのだろうか。
 ゼミでは、結局、ポストモダニズムの主張は、「あらゆる学説や理論からは、分析者の主観を完全に拭い去ることができない」ということを科学全体に警告したという点で、学問に貢献したのである、という結論に落ち着いた。
 それはともかくとして、僕にとって、やっぱり、ポストモダニズムは難しい。

【本】
永井均小泉義之『なぜ人を殺してはいけないのか?』河出文庫、2010年。
フェルディナンド・プロッツマン、関利枝子ほか訳『地球のハローワーク』日経ナショナルジオグラフィック社、2009年。
トニーたけざき矢立肇富野由悠季原作『トニーたけざきガンダム漫画III』角川書店、2010年。
横溝正史『首』角川文庫、2008年。

【映画】
修羅雪姫」(監督:藤田敏八、主演:梶芽衣子)