「和」して同ぜず

 「昔の女は、男を立てた」
 ある種の主義者にとっては、嫌悪すべき言葉かもしれないが、この言葉について考えてみると、男尊とは真逆の意味が隠されているような気がしたので、考えをちょっと整理してみた。
 当たり前のことだけど、何かを立てるためには、その何かは、寝ていなくてはならない。ということは、この言葉の中に登場する男は、立てられるまで寝ていた、あるいは、立てられなければ寝たままなのだ。
 「立てる」とは、称えたり、褒めたり、優遇したりするということだろう。ということは、「立っていない」人というのは、わざわざ称えてあげなければならないほどに価値が小さい人、ということになるだろう。あるいは、本質的には褒める要素が欠如しているので、誰かが表面を装飾してあげなければ、あまりに不憫な人、ということになるかもしれない。
 また、この言葉は、少なくとも「昔の女」にとっては、良い意味のものとして使われている。つまり、男を立てるのは、何か悪い出来事に結びつくような行為ではなく、良い結果を生むとされているわけだ。悪い結果を招くようなことは、そもそも教えとして成立しない。だから、立てられた結果、男が不機嫌になるという可能性は、想定されていないと言えるだろう。
 しかし、「豚もおだてりゃ木に登る」というコトワザがあるように、立てられて喜ぶ人というのは、一般的に、賢い人としては扱われない。だから、「昔の女」にとって、男は、おだてられても気分を害さない存在、時には木登りすらするかもしれない存在として認識されていたと言えるだろう。
 従って、以上の憶測の結果を整理した上で、「昔の女は、男を立てた」という言葉を言い換えると、「男とは、立ててあげなければならない位に価値の低い代物であり、なおかつ、おだてても気分を害さないような愚鈍な存在である。従って、おだてて活用するのがベターである」ということになるだろうか。生き物のたくましい知恵というやつかもしれない。
 同じような理屈は、「レディーファースト」という言葉にも適用できるように思う。


【本】
井上ひさしこまつ座編著『宮沢賢治に聞く』、文春文庫、2002年。
秋山ちえ子、永六輔、『ラジオを語ろう』、岩波ブックレット、2001年。
木下是雄、『理科系の作文技術』、中公新書、2000年。

【映画】
刑事ジョン・ブック 目撃者(Witness)」