「ウ」チへ帰る

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100115-00000031-minkei-l13
 帰宅困難者*1で思い出すのは、『ちいちゃんおかげおくり』の「ちいちゃん」だ。僕が小学生の頃に1回、弟と妹が小学生の時に1回ずつ、というわけで、僕は計3回この物語に接触した。
 戦争の悲惨さを伝えることを目的として教科書に加えられた作品だとは思うが、「ちいちゃん」を襲う悲劇は、単に戦争によるものとしてのみ描かれてはおらず、小学生向けの作品なのに、色々な読み方のできる深い物語になっている。
 「ちいちゃん」の家族*2が、いつ死亡したのかについての記述は一切ない。そのため、「ちいちゃん」が、最終的に一人ぼっちで死んでしまう原因が、戦争にあったのかどうかを読者が判断するのは難しい。それよりも、空襲後に物語に登場する近所のおばさんの方が、「ちいちゃん」の死に強く関与している疑いがある。
 この近所のおばさんは、家族とはぐれた「ちいちゃん」を家のあったところまで連れて行ってくれるのだが、「おかあちゃんたち、ここに帰ってくるの?」というおばさんの言葉に「ちいちゃん」がうなづくのを確認すると、そこから去ってしまう。
 おばさんの発した確認の言葉は、「ちいちゃん」が肯定するであろうことを見越したものと見なすことができる。それは邪推だと思われてしまうかもしれないけれど、一般的な判断能力のある大人ならば、小さな子供の現実把握能力の低さを推測できないはずはないし、しかも、相手は、見知った子供だ。その子供に、空襲後という特異な状況にも関わらず、家族が戻ってくるか否かの確認を行うのは、どちらかといえば非常識だろう。しかも、「ちいちゃん」と家族とが、本当にそんな約束(家のある場所に集合すること)をしていたのかどうかすら、おばさんは確認していない。
 というわけで、この邪推の上に立って考察するならば、おばさんの言葉には、次のような意図があったと見なすことができる。女の子が肯定してくれたならば、小さな子供を置き去りにすることへの罪悪感は、いくらか軽減することができる。女の子が1人になって死んだとしても、それは置き去りにした結果ではなく、女の子の勘違いが原因だったということになるからだ。おばちゃん自身は、「人を信じる」という行為を実行しただけであり、「人を信じる」という行為自体は、何ら非難されるような行為ではない。つまり、自分は、正しいことしか行わなかったのだけど、そのような自分の行為とは無関係に、1人の女の子が死んだに過ぎない、という説明が可能になる。
 近所のおばさんを一方的に非難するかたちになってしまったけど、実際、僕が、このおばさんの立場にあったらどうだろうか?多分、おばさんと同じ作戦を実行したと思う。子供の家族は、空襲で死んだかもしれず、家族を探す手伝いをして、結局、家族が見つからなかった場合(あるいは、死んだと判明した場合)、子供の引き取り手を捜すなり、自分が子供を引き取るなりしなければならないだろう。子供を引き取るのは、大変なことだし、おばさん1人で決められることではない。かといって、人買いに売ったり、(1度でも関わってしまった後で)置き去りにしたりすることを選択すれば、罪悪感に苛まれるだろう。このおばさんの肩に星型のアザがあるならば、罪悪感とは無縁だろうけど、凡人は、「シビれたりアコがれたり」されるような行為は、なかなか出来ないものである。
 物語の最後は、「ちいちゃん」が家族みんなのところへ駆け寄る(天に召される)ところで終わるのだけど、結局最後まで、「ちいちゃん」の家族が死んだのかどうかは分からない。だから、最後に登場する「ちいちゃん」の家族が、「ちいちゃん」の見た幻なのか、それとも天国の光景なのか、その判断は、読者に委ねられていると思われる。

*1:http://www.nagonavi.com/

*2:ちなみに、父親は、出征中。