「知」らなくてもどうということはない

 今読んでいる本*1によると、中世ヨーロッパの人々にとって、パンは、少し昔の日本人にとっての米と同じように(それ以上と言っても良い)、神聖なものだったらしい。だから、パンくずでも地面に落とさないように細心の注意を払ったらしい。
 そんな話を読んでいてふと思い浮かんだ。相変わらずたいしたモノは浮かんでこないのだが、それは今のところどうしようもない。
 「ヘンデルとグレーテル」に、帰り道確保のためにパンを撒くくだりがある。パンの神聖さを知った上であのくだりを読むと、パンを撒くという行為には、彼らの愚かさ(幼さ)以外の意味が込められていたかもしれない可能性が出てくる。つまり、普段からパン=神聖なものとして躾けられてきたはずの兄と妹が、帰りの目印代わりにパンを撒いた、とすれば、彼らは、罪悪感の壁を乗り越えてまでパンを撒いたことになる。それだけ、彼らは、罪悪感よりももっと大きな精神的苦痛に襲われていたということになるだろう。簡単に言ってしまえば、神聖なパンを撒かなければならない程に精神的に追い詰められていたということだろう。もちろん、これは憶測の域を出ないけど。
 もしかすると、撒いたパンが鳥たちによって食べられてしまい、帰り道の確保に失敗するという話の流れは、パンの神聖さを冒涜したことによる罰という意味が込められていたのかもしれない。パン=神聖という中世ヨーロッパの常識を踏まえると、こんな可能性についても考えることができる。これも憶測の域を出ないけど。
 それでも、当時の人たちの常識や生活規範が、今の僕達と大きく違うのは確かだし、違うからこそ、当時の人たちには伝わったであろう物語のニュアンスが、今の僕たちには認識すらできないものに変質しているということはあり得る。比喩表現というのは、人が日常的に使うものだけど、何を何に例えるかは、使い手やその表現を受け取る側(話し相手や読み手)の常識に規定(制限)されている。
 パンが神聖だった時代ならば、何かをパンに例えることは、その何かを称えるための比喩表現ということになるが、現代であれば、「君はパンのような人だ」と言われたとしても、称えらたと感じる人はいないだろう。




【今日の読書】
『ヨコモレ通信』(辛酸なめ子著、文春文庫PLUS)
『〈はかる〉科学 計・測・量・謀……はかるをめぐる12話』(阪上孝/後藤武編著、中公新書)

*1:阿部謹也[2008]中世を旅する人びと、ちくま学芸文庫