「嘘」のような本当でもないような話

 某宗教団体による一連の事件、エヴァンゲ○オン、某ツイ○タワー関連の事件などなど、これらの出来事なり作品なりが、いかに世相を反映したものであったか・いかに人々へと影響したものであったかについて、一時期、盛んに書き立てられたのを覚えている。
 話題になった現象や作品の中に、世相やその時代の価値観を読み取る作業というのは、ある種の人たちにとっては、疑問の余地のないスタンダードな手法なのかもしれない。
 昔、缶詰の品質検査は、無作為抽出で以って行うという話を聞いたことがあるけれど、この手法は、缶詰の無作為抽出に似ている。
 映画は、監督を含む製作スタッフたちの考えや人生を反映しているだろうし、それを鑑賞した人たちに影響を与えるだろう。事件は、それに直接に関わった人たち(事件を引き起こすことに関与した人)の考えや人生を反映しているだろうし、事件を直接間接に経験したり知った人たちに大小の影響を与えるだろう。
 だけど、どんなに有名な事件でも、どれほど話題になった作品でも、それらは、個人を取り囲むあらゆる出来事の中のひとつでしかないし、ある事件や作品に対して、特別な感情を抱かなかった人やその存在を知らなかった人だって少なくない数いただろう。
 このように考えてみると、ある事件や作品を世の中全体の象徴であるとか世の人たちに影響を与えたと見なすのには、無茶があるような気がする。このような無茶を軽減あるいは回避するためには、手間と金を掛けたフィールドワークが必要なのだろう。


【今日の読書】
『自由に生きるとはどういうことか―戦後日本社会論』(橋本努著、ちくま新書)
『脱DNA宣言 新しい生命観へ向けて』(武村政春著、新潮新書)