「牛」の経済

 岩波書店のPR誌『図書』は、近所の書店に行けば無料で入手でき、豪華な執筆陣によるエッセイや小論を読めるのでお得だ。
 今回の2009年6月第724号には、以前日記にも書いた食肉の話*1に関連したエッセイが掲載されていた。赤松明彦氏の「ヴェジタリアンということ」という作品だ。インド人の大部分が肉類をいっさい食べないのはなぜか?という問いを軸とした良い雰囲気を漂わせながら展開されるエッセイである。
 氏によれば、「古代インド人は、牛や馬の肉を好んで食べた」(p.24)のだそうだ。しかし、「インドでは、牛は食べるために殺すより、穀物を生産するための農耕に使う方が費用対効果が高い」(同上)という理由で牛を食べなくなったらしい。この説は、筆者がマーヴィン・ハリスという人の著書*2から引用したものなのだが、このハリス氏は、他にも、西洋人が馬を食べない理由を同じく費用対効果の高さから説明している。筆者の赤松氏も基本的にこの説を支持しておられるようだ。ハリス氏の説は、肉食タブーの起源を宗教に求めず、合理性に求めている点が面白い。しかし、費用対効果の高い低いを気にかける程の物質的豊かさが、古代に実現されていたのかは疑問であり、古代史を合理的に解釈し過ぎているような気がしないでもない。どちらかと言えば、食用の牛を確保しておくほどには、牛に余分がいなかったということなのではないだろうか。年老いて使いものにならなくなった牛ならば、解体して食べたかもしれないが。
 さて、上述のハリス氏による説は、インド人のほとんどが、牛肉を食べない理由を説明してはいるものの、全ての肉を食べない理由を説明していないのであり、そのため赤松氏は、自身の説を展開し始めている。赤松氏の説は、「肉食の忌避へと人間を向かわせるほどの強い力をもった観念が古代インド社会に生み出されたからではないのか」(p.25)というもので、これは、観念起源説あるいは宗教起源説というどちらかと言えば一般的な見解へと戻ってきたと言えるような説であり、筆者自身もそれを自覚しているようだ。
 ただし、この説も肉食の忌避という観念が、人々に根づいた理由を説明することはできず、その点で掘り下げる余地の残された説と言えそうだ。
 兎にも角にも、食肉タブー文化の謎解明に一歩近づくことができたんじゃないだろうか。

*1:どうして馬肉をタブー視する文化があるのか?云々という話

*2:http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9975181341