「嘘」でも真でもない

 友人であり先輩であるM氏から『長江7号』という周 星馳(チャウ・シンチー)の映画を貸してもらって観た。数日後、映画を観た感想などをM氏と話しているときに、登場人物たちの台詞の中に、日本語の字幕&吹き替えに反映されていないものがいくつかあったということを教えてもらった。中国語がネイティブよりも上手な氏だからこそ知ることのできた事実だ。
 吹き替えにも字幕にもならなかった台詞とはどんなものかと言えば、お約束通り、「この私生児め!」などのスラングだったそうだ。このような過激なスラングは、柔らかい表現に鋳直されたり、あるいは、無視されたりというかたちで吹き替えや字幕が作られているということらしい。これは別に珍しいことではない。現に、僕の好きな米国の人気ドラマ「BONES」にも、やはり、日本語の吹き替えや字幕を作る際、無視あるいは改変された台詞というのがいくつかあった。
 このような配慮は、一般的には、道徳的な行為として褒められることはあっても非難されることはない。僕も、人間が道徳的であろうとすることは正しいことだと思う。だけど、このような配慮によって、ドラマの登場人物たちに、インモラルな人間がいなくなってしまうのは気持ちの悪いことだ。悪人は、悪人らしい行為や台詞によって悪人らしさを際立たせるのだろうし、卑猥で俗なことしか言わない人物が、実は、清い心の持ち主だったというような二面性を表現するためにも台詞や行為は重要である。人間関係の複雑さや人格の複雑さを表現するために、台詞は欠かせない。
 劇中での残酷な行為や残酷な台詞を規制すれば、結果として、道徳的にしか行動せず、道徳的な言葉しか言わない、そんな道徳的な人物、あるいは、何も言わず何もしないというような独特すぎる人物、以上のような人物ばかりの作品しか作れなくなってしまいかねない。もし仮に、そのような作品があったとしたならば、それを観賞した際の正しい感想は、「つまらない」の一言に尽きるのだろう。そして、「つまらない」作品を作ることは、製作者にとっては罪なことなのだろうし、観賞する側にとっては罰でしかない。
 不道徳な表現を試みる罪と道徳的なつまらない表現を生み出す罪、どちらの罪が重いのかは「神のみぞ知る」だ。

【今日の読書】
バーチャルネットアイドル ちゆ12歳』(ちゆ12歳著、ぶんか社)
修道院にみるヨーロッパの心』(朝倉文市著、山川出版社)