「ヌ」エの啼く夜

 平面世界での出来事が問題になっている。確かにこれは深刻な問題だ。これに気づかなかったなんて、僕の目は節穴だった。
 考えてみれば、平面世界は、これまで無法地帯だった。版を重ねる度に犯罪件数(のべ件数)を増やし続けているモリアーティ教授、年末になると高確率で大量殺戮in吉良邸を繰り広げる大石氏とその仲間達、暴力行為を繰り返す鈴蘭高校の面々、毛利○五郎氏を本人の承諾を得ずに針で刺し続ける非道の少年K、殺人鬼ケイシー・ライバック・・・etc、数々の犯罪行為が野放しにされている。


 ・・・人の命が・・・軽すぎるよ。
 
というわけで、これからは、仇討ちしない忠臣蔵、犯罪の起きないシャーロック・ホームズの事件簿、覇権争いの起こらない学園生活、復讐せずに通報するライバック、承諾後に腕時計を使用する少年K、というように法的に正しい内容へと変更していかなければならない。
それはそれで見てみたい気もするし。
 と、ああだこうだと吠えてみたけれど、作品と人の行為との因果関係は、探るのが難しい。例えば、世界的に大きな影響力があったとされるマル○ス主義ではあるけれど、御大の作品をちゃんと読んだ人はほとんどいなかっただろう。これに限らず、世界史に記される程の影響力をもった思想でさえ、強い影響力を得ることができた原因は、その思想の述べられている書物そのものにあるというわけではないと思う。
 それと、こっちの方がより深刻な問題だと思うけれど、全ての読者なり鑑賞者なりが、製作者の意図を正確に汲み取っているわけではないということだ。その中には、意図的に捻じ曲げた解釈をしようとする人もいるだろうけれど、個人の育ってきた環境とか今の境遇とか嗜好とか、先天的な要素や後天的な要素が原因で、製作者の意図を理解できないという人もいるだろう。「わかる人にはわかる」という言葉は、案外含蓄のある言葉だと思う。
 某団体の人たちが理想とする社会を創るためには、作品を規制するのではなく、個人が作品からどんな影響を受けるのかを規制した方が良い。作品がどんなに善良な内容だとしても、ミスリードの得意な人がどんなファンタスティックな勘違いをするかわかったもんじゃない。多くの人が聖典として崇めている書物は、大量殺戮の実現という影響を与えてしまったし、ピーター・ラ○ットのお話を愛読する人の中には、作中に登場する動物以外の生物を嫌悪する危険思想家だっているかもしれない。
 影響の受け方を規制するのは難しそうだけど、とりあえず脳にチップでも埋め込んでおくというのはどうだろう。良からぬ考えを抱いた瞬間に、チップから電流が放出されれば、不埒な行為をする人は少なくなるかもしれない。人権侵害という重大な問題が発生してしまうけれど、素晴らしい社会を実現するためには人権なんて些細な問題だ。