「の」ーぶるのーべる

 なんちゃってノーベル賞クルーグマン氏が受賞しましたね。氏の業績に関する批判・反批判いろいろあるようだけど、受賞にふさわしくないわけではないでしょう。それにしてもUSAの受賞率は「圧倒的じゃないか」!?
 ノーベル賞も銀行賞も、なにやら陰謀論的な噂があるようだけど、1等賞2等賞のような賞ではないのだから受賞の基準が灰色なのは仕方ないのだろう。特に、文系分野の場合には灰色がいっそうぼやけてしまう。
 ○経の人気が壊滅的なのはよく知られているけれど、最近の受賞に対しては、素直な賞賛や感嘆の声とほぼ同時に疑念や無関心の表明がわき起こっているような気がするので、実は経済学全体に対する世間の注目度自体が低迷しているんじゃないかと思うことがある。それに、経済と日常はイコールで結んでも良いほどに身近な出来事のはずだけに、経済への強い関心が、経済学への強い関心へと帰結するのが筋ってもんなんだろうけれど、実際にはそうなっていないんじゃないかな。そして、世間の注目や信頼を得られないという僕の思い込みが的を射ているとしたならば、その理由も何となくわかる。現実に役立つことを前面に出して勝負している主流派も、分析や解釈に重きを置く(しかも、それに徹する覚悟はない)非主流派も、自分たちの存在意義を示すことができているかどうかはっきりしないし、示せていたとしてもわかりにくい。もしかすると本当に役立たずである可能性も否定できないが、おそらく一番の問題点は、聴く側の感性に響くような面をどこかに忘れてきてしまったことなのかもしれない。
 一時期、企業が若い労働力の獲得に躍起になっていたけれど、世間や学生たちの注目や人気の低下が続いた場合、ある年代で学問の歴史自体がブッツリと途切れる日というやつがやってくるかもしれない。クルーグマンは50代半ばだから、団塊の世代にギリギリ含むことができる(という解釈もあるとかないとか)。団塊周辺の功労者たちが1通り栄誉を受け終わった時点で、業界を維持するために必要な最低限の組織規模の実現が不可能になっていたりして。

以上、思い込み9割の雑文でした。

【今日の読書】
『蒼い月』(鯨統一郎著、NON NOVEL):バカミスの腕前がちょっとずつ落ちていっているような・・・。
文芸春秋』2008年11月号:興味深い小論もあったけれど、小池百合子衆議院議員のエッセイ(?)は傑作(欠作)だった。たった数行後の記述で既に内容的な矛盾に陥っていたり、テクニカルタームの理解が変だったり*1

*1:ゲゼルシャフトを機能体、ゲマインシャフト運命共同体、と理解していらっしゃった。ゲマインシャフト(自然発生的な共同体)を運命共同体と解釈するとは・・・・・・。先天的な条件を運命として受け入れる(受け入れろ)ということなのか?もしかすると、こういう意味もあるのかもしれない。僕の勉強不足だったならごめんなさい