草稿と意思

 学部、修士、と僕の研究は、この「草稿」*1というやつを軸に展開したわけであるが、草稿というものについてどうにも納得のできないことが1つある。
 草稿とは下書きのこと。つまり「○○草稿」と呼ばれる作品は、何らかの理由で著者の存命中には陽の目を見なかったものということだ。
 この理由には大きく分けて二つのパターンがあると思う。
1、著者本人は発表する気満々だったのだが、何らかのトラブルによって草稿のままになってしまったもの。つまり、実質的には清書であったもの。
2、著者本人にとって、まだまだ手を加える必要を感じさせる内容であり、世に公表する段階ではなかったもの。
草稿未公表の理由が、前者のようなものであった場合、その「草稿」を著者自身の考えや意見として理解することに何ら疑いを挟む余地はない。問題なのは、後者のような理由から草稿が未公表であった場合である。
 後者のような理由であった場合、その「草稿」を著者自身の思想や意見として理解することは、果たして正当なことなのだろうか?これが僕の抱いていた疑問である。しかし、世の思想研究者の多くは、研究材料が「草稿」であるか「清書」であるかということにそれほど拘っていないように思う。
 死者の意思を確かめるためには、運良く日記や手記を発見した場合にも、それらを隈なく探さなくてはならないし、著者が日記や手記を残していない場合には、それこそ八方塞である*2。つまり、研究対象に対して誠実であろうとするならば、膨大な時間と労力を消費および浪費しなくてはならなくなる。
 草稿と著者の意思との裏づけを行わない理由は、おそらく以上のような理由なのだと思うが、門外漢の僕に詳しい理由はわからない。
 もちろん、自分の考えや理論に役立てるためであるならば、材料が「草稿」であるか発表済みであるかは重要ではない。けれど、ある特定の人物の思想や言説について研究する場合には、ある論文や著作が草稿段階のものなのか否かは、とんでもなく重要なことだと思う。公表しなかったということ自体が、著者自身の意思表示である場合もあるからだ。

*1:『経済学・哲学草稿』のこと。

*2:最後は江○先生にお願いするしか・・・・・・。