親のスネ齧り虫〜♪

 最近、ニート論がちょっとした復活の兆しを見せているらしい。なぜ女のニートは問題にならないのか?というのが主な論点のようだ。つまり、毎度のお約束どおり、社会問題としての旬を終えたテーマは、性別問題という化学調味料を加えられることで、社会問題としての賞味期限を引き延ばされるというわけだ。
 それはともかくとして、世間のニートに対する態度には次の二つ*1があると思う。
1、ニートであることは本人の責任という考えを基礎にして、【ニート=甘ったれ】と見なす態度。
2、ニートを生み出した原因は社会にあるという考えを基礎にして、【ニート=被害者】と見なす態度。
 ズルイかもしれないが、僕は、どちらも正しいと思う。前者と後者とでは、問題を見る際に立っている場所が違うだけだろう。
 ニートを甘ったれと理解する人は、ニートと呼ばれる人たちと同じ側に立っている。ニートを自分と同じ世界に住む人間として理解するからこそ、ニートに対する不満や怒りが露になってしまう。
 逆に、ニートを被害者と見なす人は、彼らを違う世界の住人として理解している。つまり、観察対象の1つと見なしているわけだ。蟻や朝顔の観察をする人は、蟻や朝顔に対して感情をぶつけはしない。それに、蟻や朝顔の個性については、誤差として理解するだろう。1人の人間が、ニートと呼ばれるようになるまでには、様々な出来事があったことだろう。10人のニートがいれば、10通りの道のりがあったに違いない。しかし、観察者にとっては、そのような違いは、誤差の類として一括せざるをえない場合が多い。つまり、より普遍的な要素へと関心が向いているわけだ。したがって、「よーし、親のスネを齧って齧って齧りまくってやるぜ!」という悪意に満ちたニート*2がいたとしても、観察者は、このような個性を誤差として分類してしまうし、せざるをえない場合が多い。もちろん、こんなふうなニート*3が最早誤差とは言い切れないほど大量に発見された場合には、観察者は、このような性質をニートの重要な要素として定義し直すに違いないけれど・・・。
 だから、ニートへの態度として正しいのは1と2のどちらなのか?という問いは、成り立たない。二つの見方は、最初からかみ合うはずのないものだということだ。そして、ニート問題を解決へと向かわせるには、これら二つの見方が必要になるだろう。