文章しなん

 俵万智の『考える短歌』(新潮新書)という本を読んだ。この本は、実際に発表されたり投稿されたりした作品を、著者本人が添削するという形式で進んでいく。そうして、短歌をつくる際に意識した方が良いポイントをいくつか挙げているのであるが、そのなかに「主観的な形容詞は避けよう」というものがあった。主観そのものを表現するのが短歌とか俳句とか詩なのだと思っていた僕にとって、これは意外な指摘だった。
 でも、この指摘を踏まえたうえで、昔読んだことのある小説や目にしたことのある詩なんかを思い返してみると、名作や古典とされているもの、もしくは、自分が面白いと思えたもの、そういう作品には、作者や筆者の「主観」なるものは存在しなかったような気がする。「主観」が、形容詞ばかりか作品のテーマや内容そのものから見事に取り除かれていたような気がするのだ。
 「主観」の除去に失敗した作品やそもそも除去しようなんて思ってもいない作品、そういう作品は、少なくない人たちに「イラつき」を与えるのかもしれない。感情の押し売りという行為は、あまり気持ちの良いものではないからだ。もちろん、エッセイや随筆の場合は、この「主観」も大事な要素の1つなのかもしれないが、あまりに独特過ぎる「主観」は、読者から共感を得ることができないだろう。
 「自分らしさ」が大切にされる時代というのは、景気と同じように周期的にやってくるもののようだ*1。そういう時代においては、「主観」を取り除くということは一種の罪悪なのかもしれない。しかし、これは僕の持論なのだけれど、あらゆる主観や自分らしさを取り除いてもなお、「自分」というものは残存し続けるのだろう。
 主観的なものを普遍的なものへと高めようとする意志は、文学の専売特許ではない。この実に厄介な「主観」や「自分」という代物を、目立たないようにスポイルし終えるまでに、僕の論文の下書きがどれほど真っ赤に染まったか知れない。

*1:ソフィーの世界』が流行ったのは何年前だっけ?