YU.TO.RI

 「ゆとり」は、本来悪い意味で用いられる言葉ではない。「ゆとり教育」というものに僕も未来を感じていた。それが、どこをどう間違ったのか知らないけれど、円周率を3にするというトンデモに到達してしまった。
 休日を増やし、教科書の内容を減らす。「ゆとり教育」の概要はおよそそういうものだった。要は、教育を教育機関や教育期間の外に丸投げしてしまったのである。一言で言い表すならば「責任転嫁教育」ということになるだろうか。つまり、教育の外部委託である。こうして、僕が期待した「ゆとり」とは似ても似つかない化け物が出来上がってしまった。化け物から生まれるのが「化け物」だったとしても何ら驚きではない。
 「詰め込み教育」は僕も不健全な代物だったと思う。なぜなら、何かを覚えたり知ったりすることへの動機づけが欠如していたから。なぜ知りたいのか、なぜ覚えるのか、そういった教育の動機をすっ飛ばしてしまった点が最大の欠点だったのだと思う。このような動機は、児童・生徒自身が自然と抱く場合もあるだろうけれど、多くの場合は、教師を含めた先人が教えることになる。この、動機を教えるという作業は、大変時間がかかるし、経済的に効率も悪い。それでも敢えて「ゆとり」を掲げたのだろうと思ったからこその期待だったのだが、神童とよばれ、秀才と称され、末は博士が大臣かと噂された人たちは、どうやら何もわかっていなかったらしい。いや、全てを完全に理解した上で、はなから教育なんて視界に入っていなかったのかもしれない。
 もしも、「正しい」「ゆとり教育」を実施した場合、6・3・3制を変える必要があるだろう。誰もが、大学を卒業すると25歳、というくらいに教育に時間を割く必要が出てくるかもしれない。そうなれば、企業は採用基準の大幅な改変を行わなければならないし、これは経済的には莫大なマイナスを生み出すことになるだろう。「Time is money.」な世の中で、「ゆとり」はmoneyの浪費を意味する。金か教育か、どちらかをはっきり選択しなければ、奇妙な「ゆとり」が生まれてしまう。
 ちなみに、金を選んだ場合、軍隊的な教育が最も効率的なものとして採用されるかもしれない。「教え諭す」とか「説得する」とか「納得させる」とか、そういった非効率的なことを回避できるのだから。それに、思想教育を徹底することで、効率性はいっそう上昇する。それでも疑問を抱いたり反抗したりする児童なり生徒なりはどうしてもいなくならないだろう。だから、仮想の敵を作り出すことで、軍隊的な教育の正当性を維持することが重要になってくる。モデルになってくれる国がすぐそばにあるし、昔の経験を活かすこともできる。こりゃあ楽だ。