童子

 「○○童子」というのは、茨木童子とか酒呑童子に代表されるように、鬼を意味するものとして使われているけれど、強くて恐ろしい鬼と児童位の年齢の子供を指す「童子」という言葉とが、どうもすんなりとは結びつかなくて違和感があった。
 「子供」という概念が発生したのは、西洋でも東洋でもそれほど古い時期ではないらしい。少なくとも中世においては、「子供」は存在しなかったというのをどこかで読んだ。現代でも、途上国と呼ばれる国々では、子供の労働が問題になっているけれど、これも問題の本質は、子供を大人(つまり労働力)として扱うことなのではなく、そもそも「子供」という概念が存在しないことなのかもしれない。
 それはともかくとして、「子供」というのが中世に存在しなかったとするならば、そもそも「童子」が「子供」を意味するわけがない。こんなことを考えていたら、最近、「童子」が「奴隷」を意味する言葉として当初使われていたということを知った。「童」は、額に奴隷の証である入れ墨をした人間を表しているらしい。そういえば、安彦良和の漫画に、そんな描写が出てきたような気がする。つまり、「鬼」は「童子」であるとともに、「奴隷」のような卑下すべきものとして扱われていたということだ。
 「鬼」という存在に、「奴隷」という側面もあったということを踏まえると、実は、桃太郎に出てくるような「鬼」は、「鬼」のイメージとしてふさわしくないのかもしれない。桃太郎に出てくる鬼は、どう見ても支配者であり、「童子」ではない。『泣いた赤鬼』の「鬼」のような、弱弱しいイメージの方が「鬼」のイメージとしては適切なのかもしれない。
 もちろん、歴史書を編纂した側にとって、都合の悪い存在や忌々しい存在が「鬼」にカテゴライズされたということも多々あっただろうから、「鬼」イコール「弱弱しい存在」という理解の仕方も「鬼」イコール「桃太郎の鬼」という理解と同じくらい極端なものと言えるかもしれない。
 はっきりしていることは、「鬼」イコール「悪」という理解が間違っているということだろう。少なくとも、この場合の「悪」は、「誰かにとって都合の悪い存在」のことを意味している。「誰か」とは、もちろん、歴史を描くことのできる立場にあった側の「誰か」なのだろう。
 桃太郎に登場する鬼も、「誰か」にとって都合の悪い人々のことだったのかもしれない。そうだとすると、桃太郎一行は、強盗殺戮集団でもあったわけだ。
 こんな視点で源氏や平家を見ると、彼らが一族の草創期において、数々の「童子」や「怪物」を打倒したという話にも裏がありそうな予感がしてくる。
 出世の道をあきらめざるを得なくなり、「武士」という野蛮な生き方をしなければならなくなった彼らは、「武士」としての「源」家や「平」家を何とか運営していくための戦略として、「童子」や「怪物」を退治した(もしくは退治したという話を作った)のかもしれない。現代風に言えば、「イメージアップ戦略」である。
 したがって、打倒する相手が「悪」である必要はない。自分たちを売り込む相手(貴族)にとって都合の悪い存在を打倒することによって、自分たちの一族が「いかに使いものになるか」「心地よいサービスを提供できるか」をアピールすることが大切なのだから。