学校の勉強は役に立つか? その2

 勉強は、金を稼ぐのに役立つ。これが前回までの話であった。アルバイトを経験したことのある高校生くらいになると、金を稼ぐことの魅力も実感として理解できるようになるだろう。でも、小学生や中学生を魅了する答えとしては、あまり期待できるものではない。今回は、「金を稼ぐこと」以外の目的について考えてみよう。
 学校の勉強とは、具体的に、国語、数学(算数)、理科、社会、英語の五教科を主として、これに保健体育や技術家庭、それに美術や音楽を加えた計9教科のことを指すのが一般的だろう。そして、たいていの人は、これらの教科が役に立たないと思っているわけだ。1つ1つの教科を見ると、国語で習得する漢字や熟語は、確実に役立っているし、社会で習った都道府県や県庁所在地の知識も日常会話の中で自分の賢さを示すのに一役買ってくれていることだろう。それに日々のニュースを理解するのを助けてくれもする。算数で四則演算を習わなかったら、電卓やエクセルを使った計算もできなかっただろうし、英語で文法の基本を習っていなかったなら、大人になってから独学しようとしても大分苦労することになっただろう。
 一つ一つの教科の役立ち具合を見てみると、どの教科も部分的には役に立っているし、このことに納得してくれる人も少なくないと思う。だが、人々は、学校の勉強は役に立たないと言う。つまり、人々の言い分をもう少し正確に表現するならば、「学校の勉強は、その全てが役立つというわけではない」あるいは「学校の勉強は、少ししか役に立たない」ということになるだろうか。費用対効果が小さいと言ってもいいかもしれない。
 こうした言い分に対して、私は、強く反対するつもりはない。学校で習う内容は、金を稼げるということを除けば、確かに、少ししか役立たない。算数の四則演算は役立つが、それ以降の複雑な内容、とりわけ数学で習う内容は、知らなくても生きるのに何の不便もなさそうだ。歴史だって、近代史と現代史以外は、個人の趣味の領域としか思えない、という人がいても不思議ではない。そう、学校の勉強は、確かに少ししか役立たない。それでも、私は、以下で学校の勉強の役立ちや学ぶ目的について書くことができる。
 さて、私も学校の勉強は少ししか役に立たないことを認めたわけだが、もう少し正確に言えば、「学校の勉強の内容は、少ししか役に立たない」のであって、学校の勉強そのものは、役に立つものだと思っている。どういうことかと言うと、例えば、国語で漢字を習う際、私達は、書き取り練習をして習った漢字を覚えようとする。英文法も様々な問題を解きながら理解したり覚えたりしようとする。数学も理科も社会も、どのような教科でも、私達は、練習や演習を繰り返すことで、その内容を習得しようとする。それに、友人や親類に教えを請うこともあるだろう。その結果、私達の習得した内容は、少ししか役に立たないわけであるが、内容を習得する過程で、私達は、実は、内容とは異なるものも身につけている。それは、物事の覚え方や理解の仕方である。
 覚え方や理解の仕方といっても、語呂合わせのようなことを指しているのではない。覚え方や理解の仕方を言葉で表現するのは、正直難しい。自転車の乗り方や泳ぎ方を教えるようなもので、実践したことのある当人以外には理解できないことだろうからだ。これを暗黙知と呼ぶこともある。私たちは、漢字や九九を覚える過程で、「覚える」という行為に慣れてゆく。これには唯一のやり方があるわけではない。10人が10通りの感覚でつかんでゆくであろうものだ。漢字を覚え、九九を覚え、歴史上の出来事や人物名を覚え、元素記号を覚え・・・・・・私達は、様々なものを覚えつつ、ものの覚え方という感覚も身につける。覚えるだけでなく、文章の読解や要点のつかみ方や化学反応の理屈などを理解することで、物事を「理解する」感覚というものも身につける。
 覚えること、理解すること、これは狩猟採集に従事していた原始時代でも人間に欠かせない実践であったに違いない。もちろん、現代においても、働いたり遊んだりするのに欠かせないことは言うまでもない。最短でも9年間、私達は、学校という空間で「覚えること」「理解すること」を何度も繰り返す。学校の勉強の内容は、少ししか役立たないかもしれないが、物事を覚えたり理解したりする感覚は、役立つか否かというよりも、人が生きてゆくのに必須のことである。この感覚を修得するのに9年間も必要なのか否かという問題は、また別の機会に考察したいと思う。