フールプルート

風評被害とか情報の隠蔽とか、物事の真偽を見分けるのがただでさえ難しい時期に、4月1日を迎えることになってしまった。加えて、首相たちの立ち振る舞いは、日ごろから冗談めいているので、何がJOKEで何がJOAKなのかすら見分けがつかなくなってしまい、困っている。少なくとも、花見をすべきすべきでないなどという三月ウサギじみた議論は、4月1日に向けて準備したネタに違いない。
しばしの別れを告げるために、昨日は大学の研究室に行ってきた。久々の友人知人との会話で、ACのCMが流行している理由や「僕は原子力に詳しい云々」という某氏の発言が事実であるということなどを知ることができた。我らが首相は、その昔、ある種の運動に没頭していたらしいから、大学にはほとんど行けていないはずだ。そうであれば、どの大学のどの学部に所属していようとも、大学生相当の知識を習得してはいないだろうから、おそらく上記の発言は、「原子力(はらこつとむ)に詳しい」というまさかの江○達也ファンであることを間接的に告白したものだったのだろう。若者文化に親近感を持っていることを告白して支持率回復を狙うには、時機も場所も支持する作品も間違ってしまっているように思われるが、だからこそ信憑性があるともいえる。
自動車や喫煙による死者の数と原発事故による死者の数とを比較している人がいるようだが、自動車の運転も喫煙も電力供給を目的とした行為ではないので、あまり意味のある比較とは思えない。真面目な人が、ちょいワルを気取った提言をしようとしたのかもしれないので、そっとしておいてあげた方が良いのだろう。
それはそれとして、鬼神の如く反対したり、我武者羅になって推進したりする前に、どのような発電技術を選択すると、どのような社会が実現するのかをシュミレーションしてみるのは良いことだと思う。火力、水力、地力、風力、太陽、人力、そして原子力、この世にどれだけの発電技術があるのかは知らないけれど、どんな組み合わせをすると、どんな生活水準・経済成長率・税率等々を享受することになるのかを思い描いてみて、複数の未来像を選択肢として提示する。そうすれば、全ての人とまでは言えないけれど、少なくない人たちの納得の上に、エネルギー行政を成立させられるのではないかと思う。
「役員を大切にね」のキャッチフレーズで有名な企業を擁護するつもりはないけれど、彼らの隠蔽体質を作り上げてきた要因の1つには、先ほどの鬼神の如き反対者と我武者羅な推進者との意図せざる協力があったのだと思う。「絶対反対」も「絶対賛成」も主張の内容は真逆だが、人の話を聞かない・別の可能性の存在に寛容ではないという意味では同類だ。こういった人たちに囲まれてしまうと、囲まれた方は、身動きできなくなってしまう。将来の地震津波を考慮して、リスクに対処する方法を模索しようとすれば、反対者からは「絶対安全というのは嘘だったのか!!」と責められ、推進者からは「無用なことはするな!!」と叱られる。だから、何をするにもコッソリヒッソリ行わなければならなくなる。このような憶測が正しければ、絶対的な推進派と絶対的な反対派は、結果的にではあるけれど、手に手を取り合って原発関係者を石棺に閉じ込めてきたともいえるだろう。
昨日読み返していた新訳版『大転換』にロバート・オーウェンの次のような言葉が引用されていた。
「人間が今まさに手に入れようとしている新しい力によってさえ、原因を取り除くことができないような悪があるとすれば、人はそれが必然的でしかも避けることのできない悪であることを知るであろうし、子どもじみた無益な不平をいわなくなるであろう」カール・ポランニー(2009、p.467)
多くの人が、現状を正確に知り、それを受け入れるためにも、そして、正しい現状把握を土台にして、出来るだけ妥当な未来をシュミレーションするためにも、何が避けられない悪で、何が避けられる悪なのか、見分ける必要がある。そのためには、まず、落ち着くことだろう。今はまだ、隠されている情報もそのうち表に出てくるだろう。また、今でも有志の人たちのおかげで、判断に必要な有意な情報が提供されている。それらの真偽を見分けるのは難しいけれど、少なくとも比較可能なだけの量の情報は入手可能となっている。専門を同じくする2人の専門家が、仮に、真逆のことを言っていたならば、自分の安全を守るのに有益な見解をとりあえずは支持しておけば良いと思う。