十六夜日誌

一部で話題?の「十六茶」を買ってしまった。
未だに、登場人物たちのフルネームを覚えられないでいるけれど、多分、今回僕が入手したのは、秋山氏をかたどったもの。
一部の人たちの間で、某討論番組でのホリ○モン発言が話題になっているらしい。僕も大雑把にではあるけれど、渦中の番組をネットで視聴し、それを風評と比較してみた。風評の大部分(全てと言っても良いかも)は、誤解と嘘ばかりだった。
悪意によって意図的に嘘を流した人もいるかもしれないが、誤解や意図せざる嘘が流布してしまう原因の一つに、あの番組の形式があるのだろう。
多種多様な分野で活躍する10人以上もの人たちが、限られた時間のなかで討論を行うというのが、あの番組の形式だが、これでテーマに沿った議論を進めるというのは無茶な話だし、意見の食い違いや討論者間の誤解を生じさせないようにするというのも不可能だろう。視聴者側に誤解が生じるのも不思議なことではない。
討論者全員が近しい研究分野に従事していて、なおかつ、討論者数が5人程度だったとしても、誤解が生じてしまうことは、僕の経験に限って言えば、頻繁にある。僕の経験は措いておくとしても、誤解や齟齬の発生を未然に防ぐのは、不可能に近いのではないだろうか。そして、さらに厄介なことに、誤解というのは、誤解している当人には、認識され難いように思う。
どんな事柄でも、それが人間の参加を前提とするようなものであるならば、必ず適正な参加人数というのがあると思う。映画館の席数は、スクリーンの大きさや設置位置の高さなどによって左右されるだろうし、小中学校での一学級あたりの生徒数だって、教師が一度に何人の生徒の行動を把握できるかによって左右されるだろう。飲食店の場合、客が多ければ多いほど嬉しいのは確かだが、店内の広さや店員数に応じて、さばききれる人数には限界がある。
某軽音部への入部希望者が、仮に10人以上だったならば(10人という数値に特に意味はない)、部員間の関係は、いくらか事務的なものになったかもしれず、あるいは、部内に二つの派閥が生じてしまったかもしれず、某アニメのような微笑ましい日常は展開されなかったかもしれない。
少人数学級の実現が叫ばれる昨今*1、様々な物事について、適正人口という観点で考えてみるのは、無益なことではないと思う。

【本】
日本哲学小史』(熊野純彦編著、中公新書)
茨木のり子集 言の葉3』(ちくま文庫)
『生命の木の下で』(多田富雄著、新潮文庫)