フォースを感じろ

中学や高校で、「文武両道」を校訓にしているところは少なくないと思う。一般的に、「勉強にも運動にも秀でている」というものとして理解されているであろう言葉だ。自分が片方の道すら満足に修められなかったからというわけではないが、僕は、「文武両道」の一般的な理解のされ方に未だに納得できないでいる。明確な根拠があるわけではないが、広く認知された理解の根っこの部分にあるであろう、文と武は、全く異質のものor別種のものという認識に、違和感を覚えてしまうのだ。
文=勉強が出来る=知識量や情報処理能力が優れているという理解に立つならば、確かに、人生が運動に特化している人(例:プロスポーツ選手など)は、人生が勉強に特化している人(例:研究者など)よりも文の道において劣るかもしれない。しかし、文=賢いというような広い意味で理解するならば、勉強が出来る=賢いというふうになるとは限らないように思うし、運動に秀でるためには、賢さが必要となるだろう。それは、ルールを理解するという程度の賢さではなく、戦略や戦術を組み立てたり、あるいは、他人の戦略や戦術を理解したり、自分に最適な練習メニューを組み立てたり、自分を客観的に評価したり、場合によってはルールの抜け穴を見つけたり、メディアでの自分像を演出したり・・・等々の高度な賢さを含むだろう。
つまり、武の道に秀でるためにも、賢さは必要だと言えるのではないか。そうだとすると、「文武両道」を「二束のわらじを履く」というような意味で理解することには無理があるということになるだろう。「文武両道」を校訓とする中学や高校は、生徒に、異なる性質のものをがんばって両立させることを望んでいるのだろうけれど、僕の理解の仕方では、異なる(と一般には思われている)性質のものの間にあるはずの共通点を探し出し身につけることが、生徒への要望ということになるだろう。この場合、「二束のわらじを履く」というよりも「一挙両得」の方が意味としては近いかもしれない。
・・・と、ここまで書いたところで、世の中には「文武一道」という言葉もあるということを知った。しかもウィキペディアで。それによると、三船久蔵(柔道の神様)の御言葉らしい。確か、『新・コータローまかりとおる!』には、似たような名前の人が出ていたはず。それはともかく、言葉の意味は、文武は、どちらも極めればそこには同じ要素が存在するというもののようだ。単に、実践と理論は一致するというような幼稚な見解ではなく、理に適った考えの出来る人は、理を体得しているが故に、理に適った動きも出来るということ、あるいは、理に適った動きの出来る人は、理に適った考え方も出来るということ、というように、文と武の担い手である人の性質や資質に重点を置いた見方なのだろう。
ちなみに、これも出典ウィキペディアだが、江戸初期の思想家である中江藤樹も文と武とを分けて考えることに批判的だったみたいだ。この人の弟子には、熊沢藩山がいるけれど、どちらの人物の著書もいずれは読んでみたいと思っている。古文の読みにくさの前に膝を屈することになるかもしれないが。
また、これも確かな情報ソースではないけれど、「文武両道」の「文武」の解釈には、「文=外交、武=軍事」というものもあるらしく、この理解の仕方だと、「文=学問や勉学、武=武術や運動」という理解との間に、かなり大きな溝が出来てしまうことになる。外交や軍事は、個人の能力だけで左右されるものではないし、どちらも頭脳と身体との総合力が要求されるものだからだ。しかも、この場合の「文武両道」は、個人に対して使う言葉ではなく、一つの国家に対して使う言葉ということになるだろう。
高校の体育館や校長室に、額縁なんかに納められて、気軽に掲げられている言葉ではあるが、この言葉の歴史や変遷の経緯を調べてみるのも面白そうだ。ただ、春秋戦国時代の頃(紀元前770年-紀元前221年)には、既に使われていた言葉らしいので、僕では、調査する能力に不足している。

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『[新訳] 大転換 市場社会の形成と崩壊』(カール・ポラニー著、野口建彦・栖原学訳、東洋経済新報社)
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