「う」がった見方

 Shun氏のコメントを読んで思いついたのだけど、明確な原作が存在する映画や小説がある一方で、原作と呼ばれることは無いものの、監督と脚本家とが別々の人であるような映画あるいは「水滸伝」と「南総里見八犬伝」との関係のような小説も存在する。
 前者のような場合、脚本家のことを原作者と呼ぶのだろうか?また、後者のような場合、物語があまりに普及し過ぎていて、明確な原作者を指し示すことが出来ないということも少なくないだろう。つまり、作品からの影響が、四方八方に相互作用を繰り返しすぎたために、もはや影響の発信源を特定することが困難になってしまっているということだ*1
 そう考えると、原作の無い作品なんていうものは、存在不可能のような気すらしてくる。原作者が存命の場合や原作とされる作品の著作権が有効である場合には、原作が存在するということになり、明確な原作者が不在の場合や著作権解消の場合には、オリジナル作品ということになる。そんな極端な定義が頭に浮かんだ。
 仮に、あらゆる作品には著作権が存在し、しかもその著作権には期限が存在しないような世界では、大半の作家は、神話や聖書や仏典の盗作で訴えられているだろうし、どんな作家でも彼らが過去に読んだことのある作品の著作権を握っている個人や組織とは、法廷で何度か争った経験がある(あるいは争っている最中)ということになるだろう。裁判裁判裁判の日々に追われて、作品なんて作っている時間もないだろう。創作活動即ち裁判沙汰である。
 最終的には、言葉を発明した存在(人によっては神)が、あらゆる作品の原作者ということになるのだろうか?そうだとすれば、あらゆる創作者は、翻訳者ということになるのかもしれない。なんだか「原作」という言葉が、ゲシュタルト崩壊してきた。
 ところで、これは思い込みの域を出ないのだけど、「オリジナリティ」を強調する作品(映画や小説に限らず)には、面白い作品というのが少ないように思う。「リスペクト」精神は、作品を上質にするために欠かせないのかもしれない。

*1:作家Aは作品Bから影響を受けたと思っている。しかし、作品Bの作者Bは、作品Cから影響を受けており、さらに、作品Cの作者Cは、作家Bと作家Dの双方の作品から影響を受けており、作家Dは、作家Aが最も嫌悪する作家G(つまり、作家A自身が最も影響を受けていないと思い込んでいる作家ということ)から多大な影響を受けている。さらにさらに・・・・・・etc.というように、影響の連鎖反応が天文学的に絡み合いつつ広がっていて、作家が何から影響を受けたのかは、人間の認識能力では特定不可能になってしまっているということ。