ワンフレーズは怖い

「お金よりも大切なものがある」 
 この言葉をもし口に出したとしても、照れくさくはあれ、他人に嫌われたり敵意を持たれたりすることはない。それだけに、共感を得られ易く、使い易く、結果として、普及し易いのかもしれない。
 当然のことだけど、この社会では、生活に必要なもののほとんどは、お金がなければ手に入らない。食べることも眠ることも住むことも、それから、着る服のためにも一定額以上のお金が必要だ。「お金よりも大切なもの」が、例えば、人に食べ物を施すことや瓦礫を撤去することとするならば、そういった活動をしようとする人は、服を着ていなければならないし、自分の健康を維持できていなければならない。そうだとすると、やはり、一定額以上のお金が必要になる。「お金よりも大切なもの」を実現するためには、ある程度以上のお金が必要になるということだ。
 このように、僕たちの生きている社会では、お金は、生活を支える物やサービスとほぼイコールで結ぶことができる。だから、「お金よりも大切なものがある」という言葉は、「生活に必要な財・サービスよりも大切なものがある」と言い換えることも出来るだろう。
 実際には、こんなふうな置き換えをするような下衆な人なんてほとんどいないと思うし、他人にこの考えを強制するのではなく、自分の信条として「お金よりも大切なもの」のために努力している人は多いのだと思う。でも、一見、善意の塊りとしか思えないこの言葉には、悪意ある人間にとって、あるいは他人の生活に無関心な人物にとって、都合の良い解釈が可能な面もあるということだ。
 「お金」の部分は、先ほど書いたように、生活必需品などと置き換え可能だし、もっと極端な解釈をするならば、個人の生命や生活の維持そのものと置き換えることもできるかもしれない。お金が無ければ、生活が成り立たず、生活が成り立たなければ、生命は危機に瀕する。そういった社会において、「お金よりも大切なものがある」という言葉は、善悪どちらの可能性も持っているのだと思う。
 例えば、個人の生活を保護するための諸ルール(労基法など)を安易に破る人がいる。そういった人でも、みんなの笑顔のためにがんばることを信条としていたりする。この場合、一見矛盾するようではあるが、彼にとっても、「お金よりも大切なものがある」という言葉は真実に違いない。ただ、彼は、誰かがその「大切なもの」を行ったり手に入れたりするためには、その誰かが一定額以上のお金を持っている必要があるという事実に気づいていない(あるいは、気づかないふりをしている)。気づいていないから、個人の生活を守るためのいくつかのルールを軽視・無視してしまえるのだろう。
 言葉の前提となっている常識(生活には一定額のお金が必要)を見落としたままの状態で、この善意の言葉を実行してしまうと、とりわけ、そこに他人を巻き込んでしまった場合には、善意がたちまち悪行になってしまう。生活がズタボロのままであるにもかかわらず「お金よりも大切なもの」を実現しようとした人たちが、次々と自爆まがいに倒れていってしまうという結果を引き起こしかねない。
 「心を一つに!」という言葉も、これと同じ仕組みの言葉だと思う。この言葉も、「一つになった心を活かすためのツールが準備万端である」という、誰もが常識だと見なすであろう前提条件が必要だから。けれども、あまりに当たり前なことだからなのか、この前提部分は省略される傾向にあり、何度も使っているうちに、使っている人たち自身も前提を省略しているということを忘れてゆく(あるいは、意識しなくなってしまう)。やがて、前提と切り離された文言だけが一人歩きし始める。心を一つにしたところで、布の服と竹の槍しか装備していなかったならば、戦車や爆撃機には勝てない。心の在り方と竹や鋼鉄の硬度は、関係無いのだから。

【本】
『日本の1/2革命』(著:池上彰佐藤賢一集英社新書)